――三船くん、ちょっと。
客員講師の高山に呼び止められ、俊は振り向いた。視線の先には女子学生が団子のような状態になっている。高山は背が低く童顔であるために、自身の年齢より十五歳は年下の女子大生たちに「かーわいい」などと愛でられているのが日常風景だ。
手をばたばたさせて彼女たちを振り払い、高山はトレードマークのひとつであるスリッパをぺたぺたと引きずりながら、俊に近づいてくる。髪の毛が跳ねているのは女子にもみくちゃにされたからではなく、元々の寝癖である。
「なんでしょうか」
レポート課題が遅れているわけでもなければ、受講態度が悪いわけでもない。特に実践を学ぶことのできる高山の講義は、昨年度までなかったから余計に真面目に受けているので、呼び出されるような理由は思い当たらない。
高山はへらへらと笑いながら「君、実習まだだったよね?」と言う。
「いえ。学部生のときに一度やっていますが……」
「うん。一週間くらいの体験でしょ? そうじゃなくて、院生向けの長期期間の奴」
「あー……そうですね。まだです。でも小さい頃に実家では」
「経験者である、と。なるほどなるほど」
ならちょっと、お願いがあるんだけど、
高山の言葉に俊は身構えた。教師のこの手の台詞に逆らえた試しはないのだ。どんな無理難題を押し付けられることか。
「なんでしょう」
「うん。大したことはないんだけれど……君の実習相手、こっちで勝手に決めさせてもらうね?」
ああ、違う。逆らうことなんて最初から許されていないのだ。柔らかく、けれど断定的な口調で命令をされる。俊は笑顔を取り繕うこともなく、「はい」と小さな声で返事をした。
人は誰もが快楽を追う。どれだけ技術が発達し、生活が変わったとしても、それだけは変わらない。新たな技術はすぐに性産業に取り入れられ、更なる発展を遂げる。特に「裏」と称される界隈では、安全性や合法性など二の次で、日夜警察とのいたちごっこが続いている。
「で? この間頼んだのは……彼か?」
数日後に高山に連れてこられたのは病院だった。警察病院というのが看板からわかったが、中は一般にも広く開放されており、普通の総合病院と変わらない穏やかな空間だった。
そこで出会った男はぶしつけにじろじろと俊のことを見る。渡された名刺には「医学博士」と並んで「HAC」の文字が躍っている。
HAC――ヒューマン・アニマル・コーディネーター――というのは、俊が目指す職だった。現在大学院修士課程に在籍している俊が、臨床心理士試験に必要な必須科目の他に六限目や一限目という出席するのに不便な講義をわざわざ履修しているのは、このHACになりたいという夢があるからだ。
遺伝子工学が発達した結果、人々は受精卵の遺伝子情報を弄ることで、獣の特性を持った亜人類とでも言うべき人間を創り出すことに成功した。当初は先進国の労働力不足を補うために、力の強いゾウやクマと言った亜人類が生み出されていた。
しかし時を置かずに、作られるのは、猫や犬、ウサギにハムスター、リス、それから鳥の翼を持つ天使や魚のヒレやうろこを持つ人魚といった存在になっていった。そして彼らは見世物にされたり、裏風俗で働かされたりしている。
こっそりと俊は目の前のコーディネーターの資格(国家公務員である)を持つ、笹川という男を窺った。俳優やファッションモデルをしているような整った容姿だ。どこか女性的な部分も感じられるのに、身長は一七三センチの俊よりも十センチ弱は高い。憧れの職に就く笹川は、俊の視線や高山の「ささやん顔が怖いよ!」という茶々もどこ吹く風で先導する。
「志望しているからには、コーディネーターの役割に関してはしっかりと把握しているな?」
笹川はそう一瞥して俊に言った。喉の渇きを覚えながら、俊は頷く。
「性被害に遭ったヒューマン・アニマルたちを保護するアニマル・ウォーカー。コーディネーターはその支援をする国家公務員職です」
優等生の答えだな、と笹川は面白くなさそうに鼻を鳴らし、「本当にこいつで大丈夫か?」と高山に顎をしゃくる。
「大丈夫だよ、三船くんなら」
なぜか高山は講義を受け始めた当初から、俊を買っている節がある。思い当たる理由はないので首を捻っているのだが、単純に雑用係として重宝しているというだけなのかもしれない。
風俗店で働かされているヒューマン・アニマルたちは皆心も身体もぼろぼろである。近年ようやく「ヒューマン・アニマルの製造および管理に関する条約」を日本も批准し、正式に受精卵の遺伝子に動物の遺伝子を組み込むことは禁止されたが、裏では今もまだ、生み出されている。
警察によって摘発された裏風俗店で保護されたヒューマン・アニマルたちを昔はそのまま施設に送っていた。だが自傷行為に走ったり失踪し、元の店があった場所で発見されるということが後を絶たなかった。
彼らに対して専門家が何度もカウンセリングを行った結果、幼い頃から――ヒューマン・アニマルの成長は早い。生まれて約十年で青年の姿となり、それ以降はずっと同じ姿を保ち、人よりも少し短い、五十歳から六十歳くらいで寿命を迎える――売春をさせられてきたヒューマン・アニマルたちは本当の愛情を知らないために、自傷や失踪を繰り返すのだということがわかった。
まず欧米で、アニマル・ウォーカーの制度が確立された。一年間、一般家庭でヒューマン・アニマルたちは愛を一身に受けながら養育される。そして別れ、保護施設で労働に従事しながらひっそりと一生を送るのだ。
家族としてそのまま受け入れられる場合もあるが、多くの場合はヒューマン・アニマル自身が望まない、というのは俊自身も何度か経験したことだが、その理由についてはよくわからなかった。
コーディネーターはそんなアニマル・ウォーカーとなった家庭を補助するために設けられた特別職なのである。弁護士や医師、獣医師、臨床心理士などの資格を持つ人間しか受験資格のない、いわばエリート職なのである。
俊もアニマル・ウォーカーを実家でしていたときに世話になったコーディネーターがおり、彼に憧れて幼い頃からこの職を目指していたのだった。
>2話
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