昨年、配信があった映画「川のながれに」が都内で劇場公開され、舞台挨拶に我が推し、松本享恭くんが出演するということで行ってきました。
映画本編やアフタートークの話をする前に、下北沢の街について少し。
東京大学の学生だった10年以上前、私は駒場キャンパスを根城とする文芸サークル・新月お茶の会に所属していました。
駒場生は渋谷に繰り出すサークルがほとんどなのですが、うちのサークルは飲みサーではないので、ぞろぞろと歩いて下北沢に行っていました。
おはち(今は黒川食堂になっています)でご飯を食べて、DRAMAで古本を冷やかし、ピーコックにあった三省堂で新刊を買って、九時にシャノアール(今は亡き)で待ち合わせ。
そこでしか会えないOBなんかもいたりして、お茶しながらお喋りするのが私の青春でした。
思い出の詰まった下北沢ですが、卒業後はほとんど行っていません。
今回久しぶりに降り立って、あまりの変貌にびっくりしました。
駅隣接のきれいな商業施設がある!
でかい無印良品が窓から見えたぞ!
でも、商店街は昔と同じ匂いがしました。
懐かしさと新しさが同居する街で、「川のながれに」というノスタルジックな作品を鑑賞することができて、幸せな気持ちになりました。
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「川のながれに」は、那須塩原を舞台とした作品です。
母親を病で亡くし、一人きりになった君島賢司。
「川のながれに」公式サイトより
彼は、心の赴くまま世界中を旅し塩原に移住した女性と出会い、今までの人生に疑問を抱く。
「今まで自分はただ流されて生きていたのかも」
初めての感情に戸惑う賢司に、想いを寄せる温泉旅館若女将の幼馴染や東京で働く元彼女、さらに、幼い頃に死んだと聞かされていた父親が現れ、穏やかだった賢治の心にさざなみが拡がる…。
アラサーも過ぎると、ただただ雄大な自然を見るだけで、涙が出てきます。
(単に私が昔から涙腺よわよわマンというだけかもしれない)
特に秋は、緑だけではなく赤や黄色、茶色、木々が紅葉してカラフルなはずなのに、不思議なことに物寂しい。
音楽と合わせてOPの大自然を堪能してほしい。
この物語は、一般的に善とされている「自由」や「らしさ(個性)」とはいったい何なのだろう、という疑問を投げかけてきます。
それからキャッチコピーにもなっている「変化」。
自己啓発本もいろいろあるよね。
「こうしたらいいよ!」と変化を促すものもあれば、「あなたはあなたのままでいいんだよ」と受容するものもある。
主人公の賢司は母の死をきっかけに、自分の人生について考えることになります。
母や周囲の人たちは、「お前が何をしようともう自由だ」と言う。
「あれ? 俺ってそんなに不自由だったのかな?」とひっかかる。
幼い頃から母子家庭になり、地元を一度も出ることなく実家暮らし。
母はそんな息子を不憫に思っていたのか?
周りの大人たちはもったいないと思っていたのか?
自分自身がわからなくなり、彼は答えを探し始めます。
賢司を取り巻く三人の女性は、それぞれ違う生い立ちで、賢司に求めることも違います。
東京に就職したときに、賢司を一方的に捨てた(らしい)元カノの碧海は一緒に東京に行こうと後ろから抱きつき、五歳下でしっかり者の旅館の若女将・日菜実は那須塩原をもっと元気にしたい! という夢を賢司と一緒に叶えたいという。
個人的には、彼女たちはこのシーンに至るまでの賢司へのアクションが押しつけがましくて苦手。
「賢司らしくない」「賢司さんは変わらない」
ふたりの言う「俺らしさ」に、賢司はどうも、ピンと来ていないように見えます。
私は音葉が好きかな。
彼女が一番、賢司がそのときに欲しい言葉をくれる存在なので。
私のようなアマチュア物書きがやると、キャラクターではなくてただの舞台装置のようになってしまいがちですが、音葉は世界各国を旅してきた女性。
その分、多くの価値観に触れてきたからこそ、賢司に寄り添う言葉を投げかけてあげられる存在なのだと思います。
賢司の方も、碧海や日菜実には話さない、自分自身の悩みを、年上の彼女に対しては吐露しています。
特に、流されるだけではダメなのかと思い悩む賢司に向かって、
「案外、自分の意志で川に飛び込んでいく落ち葉もあるのかも」
というセリフが心に残っています。
賢司は、日菜実の言葉を借りると、「怒ったところを見たことがない」くらいの穏やかな青年です。
喜怒哀楽の振れ幅が常に一定で、ほとんど揺らぐことがないということは、人間味に欠けるということでもあります。
彼が、死んだと聞かされてきた実の父親と再会し、徐々に感情を露わにしていく。
話し合いから逃げていた彼は、真正面から父と対峙する場所として、川の上を選びます。
SUPのボードの上で、賢司は感情をこの映画で初めて爆発させる。
大きく乾いた笑い声が、慣れ親しんだ川に響くその光景に、私の目には涙が滲みました。
そして彼は、父に向かって言います。
「わかった」
と。
「あんたの生き方が俺にはまるでわからないということがわかった」
と。
相互理解が叫ばれる昨今ですが、心の底からわかり合うことなんて、できない。
私たちの信念、正義はひとりひとり違っていて当たり前。
理解したからといって、宗旨替えをすることは、自分自身に不誠実だ。
だから、「あなたの言っていること、やりたいことはわかった」「でも、私の信じるものとは違う」と割り切ることこそが、本当の「理解」なのではないかと、映画を通じて思いました。
実際、このシーンのあとで賢司は父を家に迎え入れ、母の遺骨を渡します。
喪主を務めた葬儀のときも、彼は涙を流しませんでした。
けれど、父の元に母のかけらを渡し、遺影を見つめる彼の目には涙が浮かんでいました。
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」
誰もが知る、『方丈記』の冒頭です。
賢司の父親もまた、万物流転を説きます。
この映画はタイトルから、『方丈記』の一節を意識して描かれているのだと思います。
そういえば、栃木には海がないのでした。
那須塩原の人たちにとって、母なる海というよりも、母なる川、なのかもしれません。
溺死しかけて、「このままでいいのか」と、最終的にアマゾンに行ってしまった父親も、ラストシーンで川の源流まで遡り、「自ら飛び込む」(これは音葉の言葉を受けてのことだったんだと思う)賢司も、川から改めて、自分自身の人生を生きようとしているんだなあ。
私は享恭くんが『ウルトラマンX』貴島ハヤト役でデビューしてから、ずっとファンをしています。
以前、朗読劇『ヴェニスに死す』でタッジオ役を演じたときに、劇場に通い詰めました。
三日間で五回見たのかな?
タッジオはアッシェンバッハを無意識に魅了してしまう、魔性の美少年。
そのときの彼を見て、私は「ああ、この人はなんて美しい男だろう」と思ったものです。
もともと舞台俳優のオタクを続けていたので、他にも美しい男を知っています。
具体的に挙げると、古川雄大さんとか。
(私は彼が同い年の男であることを、テニミュのときから信じられなく思っている・・・・・・35歳???)
(普段は古川様と呼んでいる)
古川さんは大輪の薔薇のような美しさですが、享恭くんの美しさは違う。
ヴェニスという舞台設定もあり、私は彼を、流れる水のように美しいと感じたことを、今も鮮明に思い出します。
かたちなく、冷たくとりとめのない、不思議な美しさをもつ享恭くんが、川とそこで暮らす人々の物語である「川のながれに」に起用されたことを、私は不思議な縁だなあ、と勝手に思っています。
映画は池袋シネマロサと下北沢のシネマK2にて絶賛上映中。
12月3日~は大阪でも公開されます。
ゆったりと自然に癒やされたい方、人生について考えたい方はぜひともこの機会にご覧ください。
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・・・・・・とまあ、ここまでは真面目に映画のレビューをしました。
なので関係者でリンクを辿って来た方は、こっから先は読まなくても大丈夫です。
こっから先は映画本編、舞台挨拶を通じて松本享恭という役者を私がどれほど好きかということばかり語るので。
ページを変える!
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