<<はじめから読む!
<31話
学校を休む理由のレパートリーって、実はほとんどない。
お腹が痛いとか、頭が痛いとか。
熱のあるなしは、体温計で測ればすぐに数値化されてバレてしまうが、痛みや気分は自分の感じ方の問題だから、誰も強く言えない。
母親も、最初の一週間は心配してくれていた。けれど、その後は私のことを仮病だと決めつけ、学校へ行くように説教をしてくるようになった。
私は母のことを相手にしなかった。そんな気力は湧かなかった。自分の心を守るのに必死だった。
今ごろ、学校に来なくなった私のことを嘲笑っているのだろうな、とか、風子は私のいない学校生活を満喫しているのだろうな、とか、悪い想像しかできない。
ずっとパジャマのままで、一日の大半を寝て過ごす。たまたま覗いた洗面所の鏡に映った顔は痩せこけていて、全身の筋肉が衰えてしまっている。
もう、バレーボールもできないな。
そう考えて、私は意外とバレーが好きだったのだということに気づく。
ギリギリのラインに落ちそうなボールに、必死で食らいつく。ガードしていても、膝は床にぶつけてばかりで、青あざになる。それでも私の中には、楽しかったという感覚しか残っていない。
父親は、時間が解決するだろうというスタンスだった。閉じこもる私に声をかけるものの、怒鳴ったり、無理に外に出そうとすることはなく、母とは対照的だった。
弟妹たちとは、顔を合わせることがなくなった。夜眠れなくなった私が、ほとんど昼夜逆転生活を送っているせいもあるし、母親が何か言っているのかもしれない。
みんなが寝静まった頃を見計らって、シャワーを浴びる。追い炊きをするわけにもいかず、できるだけ音を立てずに、素早く済ませる。
冷蔵庫の中の水を取り出して、一息つく。薄暗いダイニングテーブルの、私の席はまだ、荷物置き場と化してはいなかった。
学校の私の席は、まだあるのかな?
物理的に存在はしていても、はたしてそこは、私の居場所として機能するだろうか。
自分の定位置に座って、ペットボトルの水を一気に飲む。食欲はあまり湧かず、夜中にコンビニに行っておにぎりなどを買って食べたり、心配した父が部屋の前に置いていった食糧で、ギリギリ生きている。
引きこもり生活の最中でも、勉強は続けていた。今は動画サイトを少し探せば、数学や英語の詳しい説明は聞くことができる。昼間にうとうとして、眠れない夜は数式を解いて過ごした。
おかげで、数学は得意科目になりそうだ。もっとも、学校に行かなければ、意味はないけれど。
学校からの電話は、親が取っている。私は誰とも話すつもりはない。クラスメイトからは何もない。私のスマホは、送られてくるクーポンでしか震えない。先生が止めているのかもしれないが、それにしても、風子からすら来ない。
風子。
もう二度と、親友には戻れないだろう。
いいや、最初から、親友ではなかった。
冷蔵庫の中に水を戻して、部屋に戻ろうとしたとき、背後に妹が立っていたことに気づいて、驚いて一歩後ずさってしまった。音もなく背後にいるのはやめてほしい。心臓に悪い。
こんな時間まで、何してるの?
自分のことを棚に上げ、そう言ったつもりだった。
けれど、実際に唇から発せられたのは、「あ……」という、溜息と思われても仕方のない、くぐもった声だけだった。
家でひとりだと、喋る機会はほとんどない。家族の団欒からも逃げていた私は、部屋の外から話しかけられても、「ああ」とか「うん」とか言うばかりで、会話から遠ざかっていた。
心の声はうるさいくらいなのに、実際には言葉にならない。
赤ん坊に戻ったみたいだ。部屋は子宮で、私は胎児。ああ、本当にその時点から、やり直したい。そうしたら、今度は決して、間違えたりしない。
私の鈍い反応に、何を思ったのか。凜莉花は冷蔵庫から、私が戻したばかりの水を取り出した。名前を書いてあるから、それが私のものだということは、わかっているはず。
それは、あんたのじゃない。
止める暇もなく、妹は一気に水を飲み干した。濡れた唇を指で拭うと、怒ったように睨みつけてくる。これまでの私だったら、「何よ」と胸を張り、対抗している場面だったけれど、背中を丸めてしまった。
「お姉ちゃんは、汚くなんかないよ」
「ん?」
震える声で、訳のわからないことを言われた。顔を上げて見れば、なぜか凜莉花は、泣きそうな顔をしている。
私と同じで、気の強い子だった。そんな妹が泣いている場面なんて、幼少期にしか見たことがない。慌てて、「どうしたの?」と問えば、堰を切ったように、わあわあ泣き出した。
嗚咽混じりの言葉を、どうにか拾い上げてまとめると、妹は私が不登校になった理由が、学校でいじめられているからだと思ったらしい。そこから「お姉ちゃんは汚くない」という発言に繋がった。誰かから汚いと罵られたのだと思ったのである。
まあ確かに、無視というか腫れ物扱いされているのは間違いないことだが、やられている自分にはっきりとした原因があり、自覚している。いじめじゃない。
妹を宥めていると、両親も騒ぎを聞きつけて起き出してきた。ああ、お父さん、明日も朝早いんだろうに……。
抱きついた私の胸を涙で濡らす凜莉花を見て、眠気も吹っ飛んだらしい母は、電気をつけ、ついでにお湯を沸かして四人分の茶を淹れた。
その間に少し落ち着いた妹は、しゃくり上げながらも、両親に泣いていた理由を説明した。
担任から、「いじめはない」との説明を受けていた二人は、私に確認の視線を送ってきた。そう、私は誰にも、不登校の理由を話していない。
妹を泣かせ、両親を起こしてしまった私は、覚悟を決めた。自分自身の罪と向き合って、頭を下げて、みんなの力と知恵を借りる。
普段、生意気で強がっている妹が、一生懸命に考えて、行動に移した。だから私も、変わらなければならないだろう。
みっともない私の告白を、三人は黙って聞いてくれた。
自分にコミュニケーション能力がないこと。だから風子を利用していたこと。
格好悪くて、醜くて仕方のない、私の感情とこれまでの行動。
時々言葉に詰まると、父は急かさずに、「それってこういうことか?」と、私の言いたかった気持ちを確かめてくれる。
気づけば、ぐしゃぐしゃに泣いていた。私だけじゃない。お母さんもだ。
「もっと早くに気づいていればよかった……! ごめんね、野乃花」
手のかからない長女。甘えるのが下手な私を、母はそれも個性だと解釈していた。子どもの頃からずっとだったし、褒めたり、時には甘やかすということをしなかった。
ああ、そうだ。私は褒められたかったんだ。だから転校してきた、ちょっと変わり者の風子の世話を押しつけられても、喜んで自分からやった。
「あ、あのね、お姉ちゃん。私は、お姉ちゃんみたいになりたかったんだ」
凜莉花の言葉に、私は胸を詰まらせる。
「お姉ちゃんは頭がよくて、昔から何でもできて、ひとりで立っていたから。私もそうなりたくて、だからお姉ちゃんに冷たい態度を取ってたの。お姉ちゃんに甘えてたら、お姉ちゃんみたくはなれないでしょ?」
「凜莉花……」
けれど、寂しかったのだという。風子が私にベタベタと甘える度に、「その場所は私の場所!」と、叫びたかったのだという。
「ちゃんと最初から、話せばよかったよね。ごめんね、お姉ちゃん」
謝るのは私の方だ。哲宏が、「凜莉花はこじらせているだけ」と言っていた意味が、ここに来てようやくわかった。妹の秘めた心に気づかないなんて、私は姉失格。ううん、姉らしいことなんて、凜莉花のために一度もしたことがなかった。
風子に対してだって、それは彼女のためではなくて、自分が満足したいがためにしていた行動。どこまでも利己的で、他人のことなんてどうでもいいと思っている私は、欠陥人間なのだと思う。
情けなさにぽろぽろと涙をこぼしていると、黙って話を聞いていた父が、優しい目をして尋ねてくる。
「それで、野乃花はこれから、どうしたい?」
私は。
「……謝りたい。これまで馬鹿な態度を取ってきたみんなに。フーコに。でも、今は学校に行くのが、怖い」
謝って、許されるようなことじゃない。私は、風子の人生を支配しようとしていた。周りの子たちは、私の愚かな行動を止めようとしてくれたのに、言うことを聞かなかった末路が、不登校だ。
うんうん頷いていた父は、私の頭を撫でた。大きな手のひらに、また涙が止まらなくなる。
「少しずつでいい。一緒に、どうやったら学校に行けるのか、みんなにお前の気持ちをわかってもらえるのか、考えよう」
「うん……うん」
話をしているうちに、すっかり温くなってしまったマグカップの中身は、これまでの人生を象徴するかのように、甘みの後に、いつまでも苦味が残っていた。
>33話
コメント