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<32話
次の日から、少しずつ私は、普通の生活リズムを取り戻していった。
朝起きて、昼に活動し、夜に眠る。その繰り返しは、どんな手段よりも、私の心と身体を正常な状態へと近づけていく。
朝食の席に姿を現した私を見て、綾斗は寝ぼけ眼を、ぱちっと見開いた。
「のの姉ちゃんがいる!」
幼い弟なりに、私のことを心配していたし、気遣ってくれてもいた。ぴったりと抱きついてきた弟の頭を撫でて、「ごめんね」と謝った。
家族との対話を通して、自分の歪んだ認識を改めていく作業が必要だった。
きちんと話してみれば、母はそこまでヒステリックじゃなかったし、妹は私のことを、姉として慕ってくれていた。
宿題でわからないことがあれば、私に素直に聞きに来るようになった。
どうも、私がなんでもできるものだから、凜莉花も他人の手を煩わせてはいけないのだと思って、聞くに聞けなかったらしい。
それでも、学校に行くことはできないまま、冬休みになってしまった。両親も先生も無理強いはしなかった。勇気を出して、制服に着替えて玄関まで向かうのだが、そこから先、一歩も進めなくなってしまう。
過呼吸になり、顔は真っ青に、震えが止まらなくなる。母の「無理はしないでいい」という言葉に甘えて、私は自室に引き返す。そんな毎日の繰り返しだった。
相変わらず、スマートフォンは震えない。アプリの起動すら、一ヶ月以上していない。どうせ広告しか来ていないのだから。
そう思いつつ、久しぶりに立ち上げてみた。
「あれ……?」
未読メッセージの件数を表す数字が、百件以上ついている。クラスのLINEグループだった。
そういえば、文化祭のアレコレがうるさくて、通知設定をオフにしたんだっけ。すっかり忘れていた。
勇気を出して、未読メッセージに目を通す。
義務的な連絡事項が簡素に並んでいる。もうすでに終わってしまったことだが、終業式の後は、みんなで教室に残り、ささやかなクリスマスパーティをしたようだ。何人ものクラスメイトが、写真をアップしている。
みんな楽しそうに笑っていて、やっぱり私なんていなくてもいいんだな、と思った。もともと、風子に合わせて選んだ高校だ。さほど思い入れや思い出があるわけではない。
今の世の中、必ずしも学校に通わなくたって、通信制や高卒認定試験など、様々な方法がある。私みたいな自覚なき社会不適合者にとっては、そちらの進路の方が、自分にも他人にも、いいのかもしれない。
落ち込んでいると、グループに新しいメッセージが投げ込まれた。
『守谷さん? 久しぶり!』
自撮りアイコンは、堤さんのものだ。ずっと既読数二十五だったグループのやりとりが、二十六に増えたことで、私の存在をすぐに察知したようだ。
すると、堤さんのメッセージを皮切りに、他のクラスメイトからも連絡が来る。クラス全体のグループだというのに、ほとんど全員が、私への私信を送ってきた。
『元気?』『大丈夫?』という安否を問うものから、長文で学校生活について知らせてくれる人まで、様々だった。文化祭準備のときからこじれていたとは思えないくらい、私を歓迎してくれている。
「どうして」
たった四文字、打ち込んだ。それだけで、理解してくれると思った。答えを用意しているのだろう、しばらく沈黙が訪れる。
真っ先に返してきたのは、茅島さんだった。
『天木さんが、うちのクラスまで来た』
「フーコが?」
茅島さん曰く、『一生懸命に、あなたのことをかばってた。何度も何度も、あなたとの出会いから、何から何まで話していった』とのこと。
風子に干渉して、あんなにひどいことをしたのに、彼女はまだ、私のことを親友だと思ってくれている。
『あんだけ言われればねぇ』『いつまでも怒ってらんないよ』励ましのスタンプとともに送られてくる。
茅島さんは、長い文章を送ってきた。
『でも、私たちは天木さんの言葉じゃなく、あなたの言葉で聞きたい。言い訳でも懺悔でも、八つ当たりでもなんでもいい。私たちはずっと、お互いに避けてきた』
『天木さんばかりをかまうあなたを理解できなかった。あなたは、私たちのことを見下していると思っていた。でも、違うのかもしれない。あなたはただ、怖かっただけかもしれない。今はまだ、全部推測でしかない』
『守谷さん自身の言葉を、聞きたい』
『人っていうのは、そうやってわかりあうものだから』
スマホの画面が濡れた。変な文字を送ってしまって、慌てて取り消す。
私はなんと返信すればいいのかわからずにいた。
確かに、私は周りを見下していたのだ。誰も、私と風子との間の絆をわかってくれないから。風子のよさを理解してくれないから。でも今は、それが間違いだったとわかっている。
みんなの前で言葉にするのは怖いし、まだ言いたいことがうまくまとまらない。
「もう少しだけ、時間がほしい」
それだけ送ると、ものすごい速さで「OK!」というとりどりのスタンプが送られてきた。私も「ありがとう」というスタンプを送り、一度スマホから手を離す。
勉強机に向かい、適当に一冊のノートを取った。普段はあまり使わない、黒いボールペンを右手に、心に浮かんだ言葉を、手当たり次第にメモしていく。
言い訳でも懺悔でもいいと、茅島さんは言った。クラスのみんなも賛同してくれている。
中には、私の話を聞いても許せない! という人もいるだろう。私だって、自分のことを許すつもりはない。
自分自身への罵倒。風子への謝罪。クラスメイトと仲良くしたいということ。今更で遅いかもしれないけれど。
全部全部、書き出した。頭が空っぽになるまで。ところどころ、インクが乾いていないところを擦ってしまっている。
一度手を止めたところで、来客を告げるチャイムの音がした。それから、階段を上がってくる足音。相手が誰なのか、私にはすぐにわかった。重々しく一段一段踏みしめて、私の部屋へと近づいてくる。
遠慮がちなノックの音に、緊張しながら「はい」と応えた。
彼と顔を合わせるのも、久しぶりだった。
「野乃花。俺だけど……入っても、大丈夫か?」
風子と同じくらい、謝らなければならない相手だった。
「はい」
ノートを閉じて引き出しにしまってから、私は哲宏を、部屋の中に呼び入れた。
部屋に荒れた様子がないことに、彼はまず、ホッとしたようだ。肩の力を明らかに抜いて、ぎこちなく笑みを浮かべる。
「思ったより、元気そうだな」
「うん……最近は、ね」
単純な挨拶。ただし、幼馴染みとは思えない距離感だ。沈黙が続く。謝らなければならないのに、何から話せばいいのか、言葉が迷子になっている。
「あの、ね……」
私よりも先に、哲宏が深く頭を下げた。
「すまない。そんなになるまで、追い詰めるつもりじゃなかったんだ」
哲宏は何も悪くない。ちょっと前なら、ヒステリックに詰め寄っていた可能性が高いけれど、今の私は、自分の悪いところを不完全ながらも理解している。頭を上げてもらって、今度は私が深々と謝罪する。
「こっちこそ、本当にごめんなさい。哲宏は何度も忠告してくれていたのに。聞き入れなかった私が、馬鹿だったの」
何度も謝罪合戦を繰り返すうちに、おかしくなったのか、哲宏が笑い始めた。少しだけ許された気がして、私も笑う。
哲宏は、小学校のときから私のことを、私と家族のことを心配してくれていた。手のかからないイイコの私の屈折した感情も、妹の凜莉花が私へ抱いている複雑な感情も、なんとなく気づいていたらしい。
「一方的な気持ちは、恋愛感情だろうが友情だろうが家族の情だろうが、ダメになるのは明らかだからな」
知った風なことを言う哲宏だけど、彼は昔から、そんなに友達の多い方じゃない。だから、
「漫画の受け売り?」
と聞くと、図星だったらしく、少し目元を赤くして、「……そうだ」と、苦々しく頷いた。
仲のいい幼馴染みのやり取りに戻ったことが嬉しかった。クラスメイトの前でも、こんな風にまずは、謝罪をしたい。その後の話は、言い訳にしか聞こえないだろうけれど、全部話したい。
冬休みが明けたら、みんなに謝ろう。でも、その前にあと二人、私は個人的に、直接謝罪をしなければならない人がいる。
「天木は、お前のことを心から心配している。でも、会って話すのが怖いそうだ」
文化祭の日、強く振り払われたのを思い出す。
あのとき風子は、どんな顔をしていたのだったっけ?
私への嫌悪か。それとも、咄嗟に出た自分自身の行動への驚きか。
「そんな……私が悪いのに」
「気にすることはないと俺も言ったんだけど、頑として頷かない」
言って、哲宏はポケットから何かを取り出した。
「これを、お前に渡してほしいと」
手渡されたのは、四つ葉のクローバーだった。長持ちするように、押し葉にして栞に加工されている。それが、哲宏のポケットからはいくつもいくつも出てくるのだ。
「全部、お前へのプレゼントだそうだ」
四つ葉のクローバーの花言葉は、幸福。
「こんなもの……」
私の言葉を誤解した哲宏は、一瞬眉根を寄せて不快感を表した。しかし、私のぐちゃぐちゃの顔を見て、思い過ごしだと理解した。栞の紙に、ポタポタと落ちていく涙。
目を閉じれば、いくつもの思い出たち。いつだって風子は、私に幸福を差し出した。不幸な子、可哀想な子。彼女を哀れみ、優越感に浸っている私に、真心をくれた。
「こんなもの、私が受け取る資格なんてないのに……!」
ぎゅっと握る。緑の匂いが、微かに残っていた。風子の匂いだ。幸せの象徴の匂いだ。
「謝らなきゃ」
涙を拭いて立ち上がった私に、哲宏は大きく頷いた。
>34話
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