<26話
スキップしたヒカルは、眩暈と吐き気に襲われた。だが、倒れ込んで回復を待つ時間はない。ゆっくりとしか歩けないが、ヒカルは黒田の家に戻る。幸いにして、それほど離れたところに着かなかったので、方向音痴なヒカルでも、辿り着けた。
「奥沢くん」
スキップしたときの身体への負担を、黒田は嫌というほど知っている。この時代に定住しているとはいえ、彼もまた、能力者だ。
支えようと手を伸ばした黒田を、制止した。
「エリー」
ウサギのぬいぐるみは動かないが、微かに頷いた気がした。
いつもの大きなスポーツバッグに、ぬいぐるみをぶち込んだ。エリーには伝わらないことはわかっているけれど、ぽんぽん、と強めに叩いた。
「黒田さん。協力してほしいことがあります」
黒田は一瞬、怪訝な顔をした。協力してほしいこと、に心当たりがなかったせいだ。でも、彼は詳しいことを聞かずに、頷いた。
ヒカルの目が、いつも以上に真剣な色を帯びていたからだった。
※※※
二人が向かったのは、龍神之業の本部、すなわち桃子の自宅でもあった。東京の下町に、突如現れた御殿といっても過言ではない規模の建物を陰から見上げ、ヒカルは大きく息を吸った。
ここに、桃子が監禁されている。
黒田に尋ねても、どの部屋かはわからなかった。彼女の居場所はトップシークレット。それとなく歴の長い信者に尋ねてみても、笑顔ではぐらかされるだけだった。
「僕がまだ、信者になって日が浅いから教えてくれない、というわけではないみたいで」
一部の幹部にしか、桃子の行方は知らされていない。いわゆる、トップシークレット。黒田にもわからないというのなら、潜入してなんとか探すしかない。
「それにしても、大丈夫かい? 正面突破なんて」
「大丈夫。っていうか、裏口からこっそり入ってバレたときの方が怖い」
正門前に、ヒカルたちは移動する。玄関前を清掃している出家信者が、あら、と顔を上げた。
「黒田さん。こんにちは」
箒を脇に挟み、彼女は胸の前で手を合わせた。黒田もまた、「こんにちは」と同じポーズを取る。二人を交互に見比べてしまったのは、演技ではなく、素だった。
「こちらの少年は?」
「ああ。奥沢光琉くん。僕の甥っ子でね、大学入学を機に、うちに下宿をすることになって。龍神様について知りたいと言うから、連れてきたんだ」
女性はぱっと明るい表情を作った。
「まぁ! それは、皆さん喜びます。うちは若い人が少ないから……」
よろしくね、と笑う。彼女は三十歳をいくつか超えたくらいだろう。化粧っ気のない顔に、そばかすが浮いている。ふわふわと明るく楽しそうな表情を浮かべているが、頬はやつれ、目の下の隈は濃い。
不健康そのものなのに、幸せそうにしている女は不気味だ。ヒカルは旨に浮かんだ恐怖を押さえ込んで、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「鳥山さんは?」
「ああ、鳥山さん……ちょっと会うのは難しいかもしれません」
女は顔を曇らせた。
鳥山、というのは辰巳理王の側近中の側近だ。データだけは、ヒカルの頭にも入っている。彼が信者たちの名簿の管理をしている。すなわち、鳥山の目通りなしには、入信が叶わないのだ。
「忙しいかな」
「ええ……儀式はもう、今日の夜中ですからね」
女性は声を潜めた。頬に薔薇色が差して、彼女が儀式を楽しみにしていることがわかる。つい耳に入ってしまった、という体を繕って、ヒカルは「儀式って?」と無邪気に聞いた。
「龍神様が、この世界を変える儀式です。理不尽な世の中すべてを、壊していくんです」
ヒカルに負けず劣らず、無垢な喜びを全開にして、少女のように彼女は語る。ただ、その言葉の中身は物騒なものだった。若干引き気味のヒカルに、彼女は気がつかない。
「まあまあ。彼も入信したら、目の当たりにするわけですから。ひとまず、我々は中に入りますね」
黒田が宥め落ち着かせ、ようやく二人は解放された。玄関では靴とともに、靴下を脱ぐように指示される。ヒカルはスリッパを探してきょろきょろしたが、用意されていなかった。修行の一環だよ、と黒田に囁かれて、そういうものか、と納得する。
春になりきれない三月だ。暖房設備のない板張りの床に、裸足の足を触れさせると、ヒカルはあまりの冷たさに驚いて、一瞬ひっこめた。
「修行だよ、修行」
涼しい顔で黒田は先を行く。ヒカルも気合いを入れて、一歩を踏み出す。
宗教施設だから、静謐な雰囲気に包まれているのかと思いきや、真逆だった。一切の暖房器具を使っていないにも関わらず、あくせくと動いている人々の額には、汗が滲んでいる。熱気にあてられて、ヒカルの頬にも血が集まっていく。
襖は全部開いていて、ヒカルは何とはなしに、歩きながら覗く。黙々と今日の夜中に行われる儀式の準備をしている人々の目は、ギラギラしていた。
黒田の先導に従って、人気のない部屋に着く。
「大丈夫かい? 奥沢くん一人で」
ヒカルは首を横に振った。怪訝な顔をした黒田に、にやっと笑い、鞄をぽんと叩く。
「二人っすよ」
ファスナーを少しだけ開けて、「な?」とウサギに問いかけた。返事はないが、聞いているだろう。
「そうだね。二人なら、大丈夫だ」
黒田は一人で、信者たちから情報収集をし、桃子の居場所が判明次第、合流する。耳にワイヤレスイヤホンを突っ込んで、携帯端末で交信する準備は万端である。
黒田はコピー用紙をヒカルに渡した。施設内の地図を、黒田が自分で見て回った範囲でまとめたものである。在家信者には入ることを許されていない場所も、聞いた範囲で手書きしてある。特に、地下は謎だらけだ。どのくらいの広さの部屋がいくつあるのかも、わからない。
だからこそ、桃子がいる可能性も高い。
黒田は信者たちの気を引きつけて、ヒカルが地下へと潜入するための隙を作る。
「命の危険にさらされることは、ないとは思うけれど……」
「それは甘いですよ、黒田さん。神に狂った人間は、何をするかわからない」
沈黙を保っていたエリーが、小さく咎めた。教団に潜入捜査をしていた黒田は、信者の知り合いも増え、彼らへのチェックが甘い。すまない、と彼は表情を引き締め、背筋をぴんと伸ばした。
「できるだけ早く、情報を手に入れるよ」
「お願いします」
(待っててくれ。桃子)
ヒカルはごくりと、唾を呑んだ。
>28話
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