<27話
地下への潜入は、意外とあっさりと済んだ。転んだ黒田が、大げさに喚いたので、皆そちらに一瞬注意が向かった。その隙に、地下へと向かう。
地上の熱気とは対照的に、地下は冷えている。少しかび臭い。
人の気配を探りながら、ヒカルは緊張しつつ進んでいく。
ヒカルはバッグから、ウサギのぬいぐるみを取り出した。人間の目よりも、ウサギのセンサーの方が、精度は高い。間抜けな潜入スタイルだが、一番心強い。
「気を抜くなよ」
スピーカーの音量をギリギリまで絞り、ヒカルにだけ聞き取れる声で、エリーは囁く。
「ああ」
ヒカルの返事は溜息と区別がつかないほど、ささやかなものだった。
忍び足での捜索は続く。どこまでも廊下は続いているような気がして、ぞっとした。閉まっている扉を開くとき、角を曲がるとき、一層の緊張を強いられる。ウサギのエリーにも、透視能力までは備わっていない。集音器を襖に近づけて、中の音を聞き取り、誰かいないかを確認する。
地図を開いて、確認する。やはり曖昧な情報で作られているようで、信頼性は低かった。溜息をついて、地図を畳み直す。カサリ、と小さな音を立てた瞬間、エリーが「誰かいる」と鋭く小声で言った。
ヒカルは瞬間的に、襖の陰に身を潜めた。
(どうしよう)
ためらうことは許されない。一瞬の判断の遅れが、命取りになる。心臓の音がうるさく、気配を探ることができないほどだ。
このままやり過ごすことはできない。倒して、着ているものを交換すれば、しばらくの間は出家信者のフリをして、どうにかできるかもしれない。暴力は許されないことだが、そもそも正当な理由もなく、不法侵入している時点で、もう言い逃れはできない。
ヒカルは覚悟を決めた。自然と心音も落ち着いてくる。タイミングが重要だ。
(一、二、三……今だ!)
踏み込むと同時に、引いていた腕を突き出して、勢いづけて接近してきた人間に、殴りかかる。相手が女だったらどうしよう、というのは不思議と考えなかった。暗い地下室は、あまり女性には人気がないだろう。
「!」
鈍い音がして命中するかと思われた拳はしかし、パシン、と硬い肉にぶつかる音がして、掴まえられてしまう。顔を上げて、二重に驚く。
「カイ!」
低い声で、攻撃をやすやすと受け止め、力を受け流した相手の名を呼んだ。カイは、すでに取り繕う必要がないと判断したのか、弁護士としての仮の姿を捨てていた。スーツも眼鏡もないカイは、目つきの悪さが露わになっていた。冷たい表情は、人格者を装っていたときよりも、様になっている。
「ようこそ。龍神之業、最後の日へ」
もっとも、本当に「最後」になるかは、お前次第だけどな。
カイはそう言って、笑った。
「最後」
繰り返すヒカルは、カイの「お前次第」という言葉の意味を、すでに理解している。睨みつけるものの、カイは飄々とした様子で受け流す。
彼が狙っているのは、龍神之業の儀式が失敗して、無差別殺人および集団自殺という歴史的大事件を、なかったことにすることだ。そうすれば、精神活動の自由が制限されることはない。
街中でビラを撒いていた男の姿を思い出した。時間はさほど経過していないのに、もうずいぶんと昔の話のような気がした。脳裏に浮かぶ光景は、セピア色がかっていた。
事件がなければ、二〇一八年現在のように、ヒカルたちの生きる未来も自由を謳歌できただろう。信じたいものを信じ、表現したいと思ったそばから、言葉を発信することができる。
桃子と歩いた、原宿の街を思い出す。ファッションは自己そのものだ。自分たちの価値観を、身体全体を使って表明し、しかも「個性的だ」と言われ、誰からも自分を否定されない。奇抜な服装と派手な髪色で着飾った若者たちの目は、桃子も含めて、きらきらと輝いていた。
(あんな目は、俺にはできない)
ヒカルが生きる未来の日本では、夢を見ることなど許されていない。勤勉に学び、働くことだけを求められており、突出した個性を磨きぬこうとしても、大人たちによって潰される。淀んだ目の青年たちしかいないこの国は、きっと緩やかに衰退している。
「あの未来が、理想形なわけがない。お前だって、そう思うだろう?」
カイが緩く握った拳で、ヒカルの胸をぽんぽんと叩いた。まるで友人にするような仕草に、ヒカルは驚くとともに、少し引いた。しかもカイは、これだけでは足りないと言わんばかりに、ヒカルの首に腕を絡ませて、引き寄せる。逃れようとしても身長と体格の差のせいで、もがくだけに終わった。声を潜めて、彼は囁く。
「『お嬢様』を死なせたくはないだろう?」
ピース・ゼロの話を聞いたときに、武力や暴力なしに、歴史改変など不可能だとヒカルは思った。だが、こうして自分が彼らのコマに数えられてしまった今となっては、容易に理解できた。
彼らは、善行を積み、人々を救い、歴史を変える。凄惨な事件の裏には、必ず誰かが傷つき、非業の死を遂げている。きっかけとなる事件をなかったことにして、ピース・ゼロは自分たちの望む世界を創り上げる。
ヒカルは感情の籠らぬ目を、カイに向けた。
悪人としか思えない目つきの悪さだが、彼がやろうとしていることは、人助けなのだ。何の罪もない少女の命を救い、その後起きる自殺や殺戮行為をなくす。
それに比べて、自分はなんだ。
正しい歴史を守ることを免罪符にして、多くの人の死を知りながら、見過ごそうとしている。どころか、彼らが人を殺し、自分たちも死ぬことを望んでいるのだ。
カイの方が、よほど正義のヒーローだ。
「なぁ、ヒカルくん?」
彼の問いかけに、ヒカルは答えなかった。問いに対する正解を、持ち合わせていなかった。さっくりと無視をして、「彼女はどこにいるんだ?」とだけ尋ねる。
むっとしている様子のカイだったので、教えてもらえないかもしれないとひやひやしたが、彼はにやりと笑った。
「ついてこいよ」
カイが顎で示した。桃子を探すということは、助ける気があるのだと、好意的に受け取ってもらえたのだろう。
無言で先を歩くカイの後ろに着きながら、ヒカルは自分の中で出た行動指針に、唇を歪めた。
>29話
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