業火を刻めよ(29)

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火 ライト文芸

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28話

 重い扉の奥は、座敷牢だった。先ほどよりも、一段と空気が冷えたのを感じて、ヒカルは思わず身震いする。

「どうしてこんな」

 独り言だったが、カイが親切にも答えをくれる。

「ここは、出家信者たちの修行場。己の限界を超えた修行を行うことによって、更に龍神の加護を得ようってことだな。彼女は、儀式に向けての潔斎のために、ここにいる」

 暗くて寒い牢の中。倒れ伏している少女の姿が脳裏に浮かんで、ヒカルは青くなった。カイは、そんなヒカルの反応を無視して、先に進む。

「この奥の牢の中に、彼女はいるよ。あとは一人で行け。……しっかり彼女を説得するんだぞ」

 ヒカルは無言を貫いた。お前の仲間でも、手下でもない。そう言いたいのは山々だったが、ここで話がこじれても面倒だ。カイには、ヒカルが桃子をどうにかして救い出そうとしているのだと、思わせておいた方がいい。

「桃子?」

 辿り着いた座敷牢の中には、体育座りの状態で蹲る、白い和服姿の少女がいた。ぐったりとしていて、ヒカルの小さな声には、反応しない。

「桃子!」

 今度は声を張った。すると、のろのろと彼女は顔を上げ、焦点が微妙に合わない目を、こちらに向ける。

「ヒカル、くん?」

 掠れた声は、弱々しい。青白い顔にこけた頬は、病人以外の何者でもなかった。

 ヒカルは駆け寄り、今にも崩れ落ちそうな桃子の身体を支える。何か食べるものはなかったか、とジャケットのポケットを探ると、いつか桃子に渡した飴がひとつ。

 こんな刺激物を与えて大丈夫かと不安になったが、他には何もない。ヒカルはパッケージを開けようとするが、慌てているせいで、指が滑る。舌打ちして、ヒカルは包みを破り切った。

「桃子。口、開けて」

 ヒカルの声に反応したのか、それともただ、苦しさを逃がすためか。うっすらと半開きになった彼女の唇を割って押し開け、飴を放り込んだ。そのまま気道に落ち込みそうになったので、しばらく指で飴を掴んだまま、彼女の舌の上を転がした。

 飴が小さくなってきたところで、舌に力が戻ってくる。自力で舐めることができるようになったところで、ヒカルはそっと、指を抜いた。

 すっかり消えてなくなったところで、桃子の頬には赤みがほんのりと戻っていた。まだ顔色は悪いが、一粒のキャンディが桃子の命を救った。強い刺激が、気つけ薬の役割をしたのだろう、目にも強さの輝きが戻っていた。

 桃子は一週間近く、水と塩以外の摂取を許されていなかった。空腹によって鬱々とした頭で、龍神に捧げる聖句を唱え続け、心身を清めていた。とうとう最終日となった今日、限界が来て倒れそうになっていたのだと言う。

「ありがとう、ヒカルくん。助かった」

 痩せてはいたが、いたって健康的な身体つきだった桃子だが、ヒカルの腕にかかる体重は、綿菓子のように軽い。

 何を言えばいいのか、ヒカルはわからずに沈黙した。上手く慰められる口もなく、そもそもすでにそんな状況ではなくなっている。

 桃子は夢中で飴を舐めている。目を閉じて、口の中でパチパチと弾ける感触を味わう。途中で噛み砕くことをせず、限界まで堪能する。桃子の喉が小さく動いて、嚥下したことがわかった。

 彼女はにっこりと、笑う。今までで一番、美しく。

「最後の晩餐」

 桃子の漏らした言葉に、ヒカルは反応した。怪訝な顔でもしていればごまかせたのに、ヒカルは演技ができない。ヒカルの目には涙が滲んでいて、それは彼女にも気づかれていた。弱々しく差し出された手は、枯れ枝のようだ。清めの香油が肌から匂ってくるが、頬に触れた指先は、ボロボロにささくれている。

「初めて会ったときから、不思議な人だって思ってた」

「桃……」

「知ってる? ヒカルくん、私のこと、たまにお父さんみたいな目で見てるの。年なんて、ほんのちょっとしか変わらないのにね。なんでも知ってますって顔してるんだもの」

 一気に喋った桃子は、激しく咳き込んだ。ヒカルは彼女を抱き起こし、背中を擦った。少しの間そうしていると、桃子はようやく落ち着いた。

「本当に、なんでも知ってるんだ。私が、これからどうなるのかも」

 ぼろ、とヒカルの目から雫が落ちる。噛みしめた唇からは、耐えきれなかった嗚咽が漏れた。桃子は涙のひとつも流していないのに、当事者ではない自分が号泣しているのは滑稽だ。冷静な自分は頭の中で、己の醜態を嘲笑う。

 でも、桃子はヒカルのことを、決して笑わなかった。むしろ、「私の代わりに泣いてくれて、ありがとう」と微笑む。

「結婚するって言ったでしょ。あのね、相手は、龍神様」

 お母さんも、龍神様の花嫁になったの。

 儀式は二度目だということを、ヒカルは初めて知った。その時に異常な熱狂行為はなかったのか。

「お母さんは、もうお父様と結婚していたし、私を産んでいたから。本当は、私が大きくなるまで待つ予定だったんだけど……それよりも前に、お父様の夢に、龍神様が現れて、儀式を迫られたから」

 他人の妻だった人間を捧げたために、儀式の効果は弱かったということだ。前回のことを知っている信者ほど、「今回こそは」という思いを強く抱いているという。

「十六歳になった瞬間に、私は……死ぬの」

 自分の死を予告する桃子の表情は、どこまでも穏やかだ。恐慌するのも、もうすでに何度も経験し、今は凪の状態なのだろう。

 桃子は、自分が死に、儀式を成功させることが、信者たちや世界の平和に繋がるのだと、父親に説得されたのだろう。とても、とても優しい子だから。そう言われたら、無理にでも納得するだろう。

 実際には、熱狂に駆られた信者たちが暴走し、その願いとは裏腹な結果になることを、彼女は知らない。

「最後に、ヒカルくんに会いたかった」

 彼女に知らせることのできない後ろめたさから、俯いていたヒカルは、顔を上げた。微笑みを浮かべた桃子は、ヒカルの目にも聖女に見えた。本当に、この世の中の憂いをすべて、取り除いてくれそうな気がした。

「も、も」

 桃子、と名を呼んだつもりだったが、嗚咽で途中までしか言えなかった。滂沱の涙の海で溺れて、彼女の顔もしっかりと見えない。泣きじゃくるヒカルの頭を、桃子はゆっくりと撫でた。

「あなたに会えたから、私は笑って、儀式を乗り越えられる」

 歌うように、彼女はヒカルに語りかける。その手はまるで、架空の母のもののようだ。ヒカルの知らぬ、優しい母。でも、桃子は決して、自分の母親代わりなんかではない。

 桃子は、自分の。

「楽しいことなんて、何にもなかった。高校に入ったら変わるかな、と思ってたけど、それも駄目で。でも、ヒカルくんが私のことを全部、肯定してくれた。わかってくれたから、私、変わりたいと思ったの!」

 ねぇ、変われたかな?

 いつの間にか、桃子も涙声になっていた。ヒカルは言葉が出せないまま、大きく何度も頷いた。勇気を出して、顔を上げた。目も鼻も頬も真っ赤になって、みっともないだろうが、ヒカルは桃子の頬に触れて、一言だけ、つっかえながら告げた。

「きれいに、なった」

 桃子はヒカルの言葉を聞いて、本当に嬉しそうに笑った。ヒカルはもう一度、「きれいだ」と告げる。

 寂しげな、何もかもを諦めていた写真の中の少女は、交流を続けるうちに、少しずつ、変貌していった。わずかに変わっていった姿の、集大成が、あの日の原宿だった。姿かたちが美しくなったことよりも、桃子が「ここに行きたい」と言ってくれたことが、何よりもうれしかったし、一番の変化だった。

「私、ヒカルくんに、二つだけお願いしたいことがあるの」

 同じ死を受け入れた状態であっても、元々の歴史と、ヒカルと出会ってからの歴史では、全然違う。

 今の桃子の目には、光がある。諦めではなく、運命を受け入れた、強さがある。

「いいよ。何でも、叶えてやる」

 断言したのは、彼女のお願いが、この状況からの脱出などではないと、確信したからだ。

『助けてほしい。死にたくない』

 そう言ってくれれば、と思う。でも、彼女は決して、それは口にしない。死ぬことへの恐怖は、まだ残っている。触れている手が、微かに震えている。

 抗うという局面は、すでに突破している。嫌々死ぬのではない。父に言われるがまま、絶望のうちに死ぬのでもない。

 桃子の心の中には、大切な思い出が詰まっている。ヒカルと過ごした日々のすべてが。それを支えに、彼女は前向きに、自分が生まれた意味を果たしに逝くのだ。

「まずね。片桐さんに会ってほしいの。あの日の写真を、あなたにずっと、持っていてほしい」

「ああ、わかった」

 桃子が受け入れた運命を、ヒカルは受け入れられない。それでも、彼女をさらって逃げないのは、自分の中に、時間警察としての矜持があるからだった。

「それからね」

「うん」

 桃子は一度、言葉を切った。ヒカルの顔を、網膜に焼きつけるかのように、じっと見つめる。ヒカルもまた、彼女の姿を、穴が開くほど見つめる。命の火が消えかけているにも関わらず、最後まで美しい、彼女の姿を。

「儀式を最後まで、見守って。私の最期の姿を、見届けてほしい。とても辛い思いをさせると思うけど」

「……わかった」

 儀式まであと数時間。

 ヒカルはギリギリまで、桃子と他愛のない話をした。本当に、くだらないことだった。桃子もヒカルも、心から笑った。

 ヒカルは終わりまで、自分の正体を明かすことはなかったし、桃子亡き後の歴史についても、語らなかった。

30話

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