<21話
ファッションビルの中のトイレは便利なもので、着替え台がついている。そこを利用して、桃子は制服姿になって出てきた。メイクはギリギリまでそのままで帰路につく。大人びた顔とセーラー服は、アンバランスだが、それはそれで魅力的だった。
電車の中で、桃子は無言だった。時折噛みしめるように、今日の思い出を反芻しているようだった。彼女の着替えた新品の洋服は、すべてまとめて、ヒカルが持った。家に置いておくことは難しいため、しばらくの間は、学校のロッカーに隠しておくつもりだという。
学校に寄って、それからいつもの公園へと向かった。途中のドラッグストアで購入したメイク落としシートで、桃子は化粧を拭い落していく。
白いシートが、汚れていく。桃子の顔は、無垢な子供のものへと返っていく。その移り変わりを、ヒカルはじっと見守っていた。
「取れた?」
幼い笑顔で問いかけてくる桃子の目の上は、まだアイシャドウのラメが残っている。完全にすっぴんの状態に戻さなければ、家に帰すことはできない。
まだ取れてないよ、と自分の瞼を擦って教えるが、桃子がいくらシートで拭っても、落ちない。
「貸して」
新しいシートを取り出したヒカルは、「目、閉じて」と言う。その言葉に従って、桃子は瞼を下ろした。
(う、わ)
動揺を押し隠しながら、ヒカルは丁寧に、桃子の肌を撫でていく。
「痛くない?」
「うん。大丈夫」
ラメの輝きはしつこく残り、ヒカルは断って、少し力を入れて擦った。
(よし)
目元のメイクは取れたが、ふと彼女の唇に目をやると、グロスが端に残っている。ここは自分でも拭えるのではないか。ヒカルは逡巡するが、直視しているうちに、引き込まれそうになる。
(キス、したい)
けれど、無理矢理口づけることができるほど、ヒカルは自信家ではなかった。彼女が自分に向ける好意は、友人、あるいは兄に対するもの以上の感情だとは、判断できなかった。
衝動に耐えて、桃子の唇に、シートを押し当てた。
「桃子さん」
声をかけられて、驚きのあまりにヒカルは思わず、シートを取り落とした。びっくりしたのは桃子も同じだったが、声の主をよく知っているという点で、ヒカルよりも先に落ち着いた。
「風見さん」
「遅いから、探しに来たんですよ。まったく、またこんなところで……しかも何してるんです?」
傍から見れば、ラブシーンに見えるかもしれない。というか、心の中ではキスしたいとか触れたいとか考えている時点で、そうした印象を抱かせるのも、仕方がないことかもしれない。
「や、あの、これは……」
言い訳をするヒカルとは逆に、桃子はきっぱりと、「自分じゃお化粧を落とせなかったの」と事実を告げた。大丈夫なのかと危惧するヒカルに向かって、彼女は笑った。
「大丈夫。風見さんは、このくらいのことは見逃してくれるもの。ね、風見さん?」
悪戯っぽい表情は、風見に向けられたものだった。彼は深く溜息をつくと、「まぁ、このくらいの息抜きは、桃子さんにも必要でしょうからね」と容認した。
桃子は笑って、ヒカルの手からクレンジングシートを取り上げて、唇をごしごしと拭った。
「お父様が心配してますよ、桃子さん。一応ごまかしておきましたけれど、早く帰ってください」
「はい」
立ち上がった桃子は、ヒカルに手を振った。
「風見さんは?」
「私は、ちょっと」
風見はヒカルに視線を向けた。目が合う。何やら意味がありそうな笑みを浮かべ、「……彼とお話が」と言った。
「わかりました。ヒカルくんのこと、いじめないでくださいね」
二人は桃子の姿が見えなくなるまで、黙って見送った。小さくなっていく後ろ姿を眺め、ヒカルは自分から話しかけるべきか、考えた。
だが、その悩みは無駄に終わった。振り返った風見は、笑顔だった。桃子に対して向けていたものとはまるで真逆の、悪意に満ちていると言ってもいいほどの、表情だ。
(違う)
風見のその表情を見た瞬間、ヒカルは自分の勘違いに気がついた。
彼は、桃子の婚約者ではない。彼女への好意よりも、自分への敵愾心の方が強い。自分の女に手を出す男への怒りではなく、もっと別の、底知れない悪意を覚える。
「あんた……」
声が掠れた。咄嗟に胸ポケットを押さえる。そこには、ロープを隠してある。銃の携帯は、現地の警察にばれるとこちらが捕まってしまうという理由で、許されていない。ナイフなどの、直接相手に危害を加えるようなものもだ。一見すれば、武器には見えないもので、ヒカルたち正史課の人間は、戦う訓練をしてきている。
この男は、敵だ。本能がそう告げている。思い返せば、桃子は、風見が父の顧問弁護士になったのは最近のことだと言っていた。
ピース・ゼロの人間が、歴史改変のために未来からやってきて、龍神之業の教祖に接触したと考えるのが、妥当だ。
緊張を破ったのは、風見だった。彼は両手を挙げて、降参の意を示す。虚を突かれた形になったヒカルだったが、すぐに男の魂胆はわかった。
(こいつ!)
敵意がないことを示した相手に、ヒカルたちは実力を行使することができない。こちらから先制攻撃をしかけることは、違法。風見はわかっていて、攻撃の意志がないことを示しているのだ。
「……何が目的だ」
お前は誰だ、という問いはもはや無意味だ。お互いにわかっている。風見はピース・ゼロの一員で、ヒカルは時間犯罪対策部の捜査員である。
「わかっているくせに」
「違う。俺に話って、なんだ」
歴史の流れを変え、自分たちの描いた未来へ舵を取ることが、ピース・ゼロの目的なのはわかりきっている。相反する存在なのに、風見は自分から、ヒカルに近づいてきた。
「いいや? うちのお嬢様と、末永く仲良くしていただければと思いまして」
風見は凶悪な本性を押し隠して、慇懃に振る舞う。
「それだけですよ」
彼はヒカルのことを、鼻で笑ってあしらった。自分の言葉を、ヒカルが理解できないと思っているのだろう。事実、ヒカルは風見の意図を、掴めずにいた。
「それじゃあ、私も帰りますね」
「待てよ!」
一瞬考え込んでしまったヒカルは、はっと我に返って叫ぶ。手首を掴もうとしたが、ひょいと逃げられてしまう。彼はクッ、と喉の奥でヒカルを嘲笑う。
「俺は何もしていないのに、暴力沙汰か?」
「!」
「通報されたら捕まるのは、この時代では、お前の方なんだよ。時空警察さん?」
ぐうの音も出ずに、ヒカルは歯ぎしりした。風見は、今度は声を上げて笑った。
「せいぜい楽しめばいいさ」
捨て台詞を残す風見の名を呼ぶと、彼は一度立ち止まり、訂正した。
「カイ、だ。風見なんて奴は、どこにもいない。覚えておけ」
またもやヒカルには、風見……カイの意図がわからなかった。わざわざ本当の名前を、自分に告げたのには、何か裏があるのではないか。カイは自分の名前を通して、ヒカルに何を伝えたかったのか。
(ただの気まぐれならいいけど……)
釈然としないものを抱えたまま、ヒカルはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
>23話
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