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<3話
自室のベッドの上、スマホを前にしてちょこんと正座した敬士は、緊張していた。
おかげで、待ちわびていたコール音とともにスマホに手を伸ばしたのはいいが、手が滑って落としてしまった。
一瞬、「やば!」と思ったが、コールは鳴り止まない。拾い上げて通話ボタンを押すと、「もしもし?」と、相手が控えめに話し始める。
電話を通じた声というのは、リアルに聞くのとは違うし、配信音声を聞くのとも違う。
自分のためだけに向けられている声を、全身で受け止めるような気持ちで、ベッドの上に仰向けになる。
うっとりと浸りつつも、息づかいのひとつも聞き漏らしちゃならないと、全神経を耳に集中させる。
『あの……敬士、くん? ですよね?』
音としては認識していても、話の中身はまったく聞いていなかった。間違い電話かと怪しんだ響一に、「待って待って! オレっす! 敬士っす!」と、慌てて声をかける。
『ああ、よかった……』
ホッとした溜息まで、高性能のスマートフォンは拾ってくれた。この日のためだけに、最新のものに買い替えた。雑音ひとつ入らないクリアな音で、響一の語りを堪能できるのだ。これからの支払いのことは、ひとまずおいておく。
『それで、何がいいですか』
雑談のひとつもしてくれていいのに、響一は、さっそく本題に入ろうとする。対面にしなかったのは、「顔を合わせてはちょっと」と、難色を示した彼の意見を汲んだ結果だったが、電話も得意ではないようだ。
「オレのためだけに、朗読してほしい」
誰にもキョウの正体を言わない交換条件に、響一は「そんなことでいいの?」と、不安そうにしていた。もっと無理難題を突きつけられると思っていたらしい。
響一にとっては死活問題かもしれないが、登録者数が多いとはいえ、鈴ノ音屋はニッチなジャンルの投稿者。興味を持っている人間は、そんなには多くない。金銭を要求するなんてもってのほか。敬愛するキョウに、無理難題を押しつけられるはずもない。
「ずっと考えてたんだけど、やっぱりアレがいいな。『忘れん坊のくまちゃん』」
たまたま最初に聞いたのが、この物語だった。
電話の向こうで、響一はガサゴソと台本を漁っている様子だ。まさか、チャンネル初期の頃の童話をリクエストされるとは、思っていなかったのだろう。
評価高いの、エッチなやつばっかりだしなあ。
「『忘れん坊のくまちゃん』、好きなんスよ。なんか、オレみたいなやつだなって思って」
この話の主人公のくまちゃんは、とても忘れっぽい。
最初は学校にハンカチを忘れ、教科書やノートを忘れ、しまいにはランドセルを背負っていくのも忘れる。友達とかくれんぼをして、鬼になったら探すのを忘れて勝手に帰ってしまう。
そんなことをしていたら、先生からも友達からも嫌がられるのは当然だ。くまちゃんは誰からも呼ばれなくなり、ついには自分の名前すら忘れてしまうのだ。
でも。
『くまちゃんのお母さんは、お母さんだけは、くまちゃんの名前を呼び続けました』
くまちゃんはようやく自分の名前を思い出し、もう二度と、大切なことは忘れないと、ワンワン泣くのでした。
敬士は、響一の語る恐ろしくも優しい物語にうっとりと浸っていた。目を閉じていると、彼の声音が耳をそわそわと撫で、心の中に染み渡っていく。
『めでたし、めでたし』
そう締めくくった後には、沈黙が下りる。自分の喋る声で、この余韻をかき消してはならぬと口を閉ざしたままの敬士だが、当然、電話の向こうの響一が、そんな心情を知るわけもない。
『お、終わりました、ケド……』
「あ~……待って、あと三十秒ください」
おどおどと言い出した響一は、先程まで朗々と童話を読み聞かせをしていたのと同一人物とは思えないほど、自信がなさそうだ。
宣言通り、たっぷり三十秒間、脳内で「めでたし、めでたし」を再生した敬士は、スマホをスタンドに立てて拝み始めた。
「ありがとうございます。これでいつ死んでもかまいません」
深々と頭を下げて、スマホの向こう側の神に祈りを捧げる。
神すなわち響一は、「えっ、死!?」と、過激なことを言う敬士に、ぎょっとしているようだ。今の自分の姿を見たら、もっと驚くに違いない。仏壇や墓参りのときだって、こんな熱心に拝んだことはないくらいだ。
狼狽えていた響一は、敬士の冗談であると結論づけて調子を取り戻した。彼は鈴ノ音屋のキョウから、ただの鈴木響一として、敬士に話しかけてくる。
『童話を読むのが久しぶりで、緊張しました』
「オレは初期の頃の配信、めちゃくちゃ好きっすよ。童話読んでるときのキョウくんって、優しい声してて」
そこでふと、出会いのときに彼が、医学部の学生だと名乗っていたことを思い出した。
「小児科のお医者さんとか、向いてそうだなって思った」
完全に、無責任な思いつきの発言だ。何も考えていなかった。
ただ、医者が怖いと泣く子どもたちであっても、響一の深く響く声でゆっくり話しかけられれば、落ち着きを取り戻すのではないかと思ったのだ。
響一は黙ってしまった。怒ったのかと焦る敬士は咄嗟に、
「いや! オレなんかが口出すことじゃないっすよね! すんません!」
と、謝罪が口をついて出た。言葉に合わせて、ペコペコと頭を下げる。
『ああ、いや、違うんです。俺、本当は小児科医になりたくて。だから、驚いちゃって』
朗読で慣れたのか、響一は最初よりもずいぶん滑らかに、自分のことを話す。
父方の一族には医者が多いこと。小学生の頃、風邪をこじらせて肺炎を患い入院したとき、担当医にすごく世話になったこと。本格的に進路を考え始めたときに、そのときの思い出がよみがえり、子どもたちが元気になる手助けができる医者になりたいと思ったこと。
ポツポツと途切れつつも、響一は最後まで語りきった。
『でも俺、でかくて子供には怖がられるし、まともに喋れないし……』
オレとは今、結構まともに喋ってますけど?
敬士は思ったが、言わなかった。確かに初対面のときの慌てようを思うと、医者としては頼りない。
まして、子どもからもその親からも信用してもらわなければならない小児科医となったら、優しいだけじゃなくて冷静沈着でいなければ。
「じゃあ、オレで練習してみたらどうっすか?」
『え?』
また考えなしで喋っているな、と、頭の片隅で思う。だがしかし、止められない。
この電話を切ってしまったら、それでおしまい。交換条件は朗読なのだから、目的は達した。彼の連絡先は、消さなければならない。
響一は、画面越しにすらコミュニケーションを取ることができない、遠い存在になってしまう。
それは嫌だ。偶然にも得た彼との繋がりを断ち切ることなんて、できない。
「オレ、馬鹿だしチビだし、子どもみたいなもんだから」
『でもそんな、俺の都合に合わせてもらうわけにも……』
遠慮する響一に、敬士は必死に訴えかけた。最終的には、「オレがキョウと、もっと仲良くしたいだけなんですっ!」と、半ば逆ギレ状態で本音を語った敬士の勝ちに終わった。
>5話
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