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<<2話のはじめから
<【21】
梅雨明けはまだ遠く、今日もどんよりと曇っている。だが、僕の心はすっきりと晴れて青空だ。
こんな気持ちで糸屋に行くのは初めてだった。だいたいいつも、カリカリと警戒していることが多い。得体の知れない店だから、当たり前だが。
糸子は涼しい顔で、本を読んでいた。普段バイトをするときと違って、僕は彼女を無視。今日は働かない。買い物をしたら、すぐに病院へ行かないと。
引き出しを開けて、赤い糸の束を取る。それからリボンのコーナーに移動して、美空のことを考えながら選ぶ。こういうのは結局直感がものをいい、僕が決めたリボンは、思ったよりも値段が高かった。プレゼントに不足はない。
客として動いていても、糸子にとって、僕は僕なのだろう。必要以上に深入りをしない。赤い糸であっても白い糸であっても、彼女が客に言うべき言葉は、ひとつだけなのだ。
赤を手にした僕は、カウンターへと歩みを進める。だが、会計はスムーズにとはいかなかった。
扉が開く音に、つい「いらっしゃいませ」と言ってしまった。ほとんど働いていないけれど、バイトが板についてきたようだ。嬉しくはない。
振り向いて、固まった。一瞬、わけがわからなかった。彼女は出歩けないからと、僕に買い物を依頼してきたはずなのに、と、勘違いしてしまった。
美空のことを知るうちに、美希とは全然違う人間性から、顔つきまで違って見えていた。だが、こうやって不意をつかれると、やっぱり同じ顔だ。
「ちょっと、なんであんた、ここに……」
僕はとっさに、持っていた糸とリボンを背に隠した。無視をすることはできず、「別に。姉さんに頼まれたものを買いに来ただけ」と言った。
口実に使ってごめん、姉さん。
「ふーん」
興味なさそうにしている彼女の方こそ、いったい何を目当てに、こんなわかりづらい店に来たのだろう。まさか、自分が篤久と付き合う黒歴史になった原因の店だとわかって来たんじゃ。
もしそうなら、来店の目的は買い物ではなく、糾弾だ。ただの客ではなく、ここでバイトをしていると知れたら、僕まで被害に遭う。
心配は、杞憂に終わった。美希はつかつかと店の中を歩き回り(というほどの広さはない)、僕が触れたのの隣の引き出しを開けた。
僕は店で働いていて、掃除のときに中も確認しているから、そこにある糸が何色のものかも知っていた。
手の中に握った糸の束は、白。
縁を切るための、色。
カウンターで糸子は彼女の手から糸を受け取り、紙袋に入れる。そして値段を告げる。美希は心得ているようで、しっかりと必要な硬貨を差し出した。
糸子の唇が、笑みを深く刻む。美希に絡みつく縁の行き着く先が、見えているように。
「ごえんの……」
「濱屋さん!」
お決まりのセリフを遮った。美希は「なに?」と、うんざりと振り返った。
「誰との縁を切るつもり?」
聞かなくとも、答えに予想はついている。信じたくない。追及の声が震えていたせいか、美希は鼻で笑った。こういう顔を見ると、やはり似ていなくて、頭の中が混乱する。
「決まってるでしょ。美空よ。あんな子、いなければよかった!」
同じ遺伝子を分け合った、一卵性の双子。美空を否定することは、自分の半分を否定することと同じなのに、美希はかたくなに、彼女の存在をなかったことにしようとする。
実際、学校では誰も、美希が双子だということを知らない。あれほど仲良くしている青山たち、遠藤にすら、ひた隠しにしている。
「あの子は病弱なのをいいことに、何もかもを奪ってきた」
量産される姉妹格差の物語。搾取される子どもと、愛玩される子ども。現実社会にも、ないことはないだろうが、こんな身近にいるなんて思わなかった。
が、美希の言い分をそのまま信じるわけにもいかなかった。彼女の思い込みという可能性も高い。
「私が行きたいって言った場所に遊びに行く日は、必ず具合が悪いって言い出した! 持っていたぬいぐるみも、持ってかれた! 『美空はひとりで入院するんだから、貸してあげなさい』って。一個も返ってこなかったけどね!」
入院を繰り返す子どもを、両親は放っておけない。健康な子どもの方は、必然的にあまりかまってあげられない。それを、美希は悪く取っているだけじゃないのか。
「あいつに友達だけは、取られたくなかった。でも、この間お父さんに言われたの」
切原くんっていうのは、美希の友達なんだろう。美空に他にも友達をつくってやりたいから、紹介してやりなさい。
「サーヤも、甲斐も大夢も、あの子に会わせたらみんな、私から離れていく! そんなの嫌! 小学校のときみたいになりたくない!」
彼女の叫びは悲痛だった。演技だとすれば、末恐ろしい才能だ。今からでも遅くないから、劇団や芸能事務所に入るべきだ。
僕には美希が、嘘をついているようにはみえない。
じゃあ本当に、僕が日々仲良くして、淡い想いを抱いている美空は「最低最悪」な女なのか。
いいや、そんなことはない。僕と話すときの彼女はいつだっていい子で、美希のことを悪く言ったりしない。
そうだ。美空は美希とは違う。相手のいないところで、僕にあることないこと……ないことばかりか? 吹き込んだりする美希の言うことを、どうして信じられるだろう。
興奮した美希は、ひとつ大きく深呼吸をした。その顔は、すでに僕の心を読んでいる。
「あんたも、他の連中と一緒だね。私の言うことなんか、信じないんだ」
そう言って、彼女は糸子の手から品物を奪い取り、店を出て行く。その背中に、「……ごえんのお返しを」と、糸子は声をかけた。小声なのに、よく通る声。
美希は一瞬だけ振り向いて、会釈をした。僕のことは完全無視だった。
扉が閉められるのを見届けた糸子は、すとんと椅子に腰を落ち着けた。
僕は握りしめていた糸とリボンを見て、途方にくれる。
美空は美希との縁を結びたい。
美希は美空との縁を切りたい。
赤と白、どちらが勝つのだろう。
糸子は語った。縁を操るのは不思議な力ではなく、信念の力なのだと。
美空の分は僕が代理購入をする。それが吉と出るか凶と出るか。
ごくりと唾を飲むと、ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。長い時間振動しているので、慌てて取り出す。案の定、姉だった。ちらりと糸子をうかがうが、気にした様子はない。僕は外に出ず、その場で通話ボタンを押した。
「もしもし、姉さん。ちょっと今、外だから手短に済ませてくれる?」
口元を手で覆って早口で言えば、不満そうなうめき声が聞こえる。
あんたが困ってるんじゃないかと思って電話してやったのに。
キャンキャンと耳元でがなり立てられて、僕は思わずスマホを耳から離す。音量調節ができない姉の声は、糸子の耳にも入った様子で、僕が何をしていようとかまわない彼女が、珍しくこちらをじっと見つめている。無言だから、機嫌が悪そうに見えて仕方がない。僕はさらに声をひそめた。
「バイト中だから、あとでまたかけ直して!」
僕の一言に、姉はあからさまに嫌そうにした。最後には捨て台詞。
ふたりきりのきょうだいなんだから、仲良くしなきゃだめに決まってるじゃない!
と。
ブツッと通話が切れて、あっけにとられる僕。溜息をついてポケットにスマホをしまう。
突然のことで驚いてしまったけれど、姉の最後の言葉は、僕の心を決めるに十分だった。
美空と美希のふたりきりの姉妹、いがみ合うよりも、仲がいい方がいいに決まっている。
赤い糸をカウンターに置く。糸子は一瞬遅れて顔を上げる。座ったままの彼女が僕を見つめるものだから、上目遣いになっている。
「本当に、買うの?」
今まで客に購入意思を確認することはなかった。僕が知る限り、彼女は淡々と、お決まりのセリフを告げることしかしない。
目をぱちくりさせた僕は、ハッとして、「買うに決まってるでしょう」と、糸の代金を叩きつけた。ちゃんと五円のおつりが返ってくるように計算して。
硬貨をじっと見つめたあとで、糸子はレジを操作した。
「ごえんのお返しでございます……」
あとはこれを、美空に渡すだけだった。
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