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<4話
「去年の、夏……」
言われて、思い当たることがあった。
受験料くらいは自分で捻出しようとして、雪彦はバイトをしていた。終わったら自習室や授業に直行できるように、予備校近くのハンバーガーショップのキッチンで働いた。
バイト先へ向かうべく歩いている途中、路地裏に母校の制服が固まっているのを見つけた。予備校やバイト先は繁華街にあったので、学校帰りの黒高生が遊びにやってくることは珍しくもない。
通り過ぎようとした雪彦だったが、「なぁ。ほら、金貸してくれればそれでいいんだって。な?」という、卑しい声に、振り返った。
貸せとは言うが、返すつもりはないだろう。それを一般的に、カツアゲと言う。
雪彦の在学中は、絶対に犯罪行為はするなと厳しく命令していた。何かひとたび問題が起きれば、黒高の番長である雪彦も、何らかの責任を問われることになりかねない。はっきり言って面倒くさい。鉄拳制裁で後輩たちを黙らせて、なんとか無事に三年間の高校生活を終えた。
もう関係ないと言ってしまえば、確かにそうだ。母校の生徒が恐喝で訴えられようが、もう雪彦の手を離れている。
けれど、ここで立ち去るのはなんだかとても、後味が悪い。
逡巡したものの、相手が言うことをきかないことに痺れを切らした後輩が、手を出したのを見て、慌てて止めに入った。拳が腹に入った少年は、うずくまる。二度目の拳が振り下ろされるのを、雪彦は握りつぶす強さで止め、その尻に軽く蹴りを入れた。粋がっているだけで、鍛えているわけでも、喧嘩慣れしているわけでもない不良の体幹はふらふらで、本気ではないキックでも、簡単によろめいた。
突然の闖入者に激昂した連中は、どうやら雪彦の顔を知らないようだ。
『お前ら、一年か?』
『あ?』
メンチの切り方だけは一丁前の一年坊主だが、天然の眼力の鋭さには勝てない。仲間同士で顔を見合わせて、ビビりながらも標的を雪彦に変える。
向かってくるとは、いい度胸をしているが、無謀にも程がある。へっぴり腰のパンチをいとも簡単に制圧した雪彦は、リーダーと思しき少年の首に腕を絡ませて、低い声で囁いた。
『黒高のユキヒョウの話を、先輩に聞かされなかったか?』
雪彦は卒業前に、後輩たちに警察の厄介になることはするなと、きっちりと拳で仕込んであった。
『ひっ』
名前だけは知っていた様子の彼らに、雪彦は感心なことだと不敵に笑ってみせた。自分こそが、そのユキヒョウである。語らずとも、空気を読むことにだけは長けている少年たちは、怯えて逃げていった。
余りの怯えように、後輩たちがいったい、自分のことをどんなふうに伝えているのか、やや気になった。
やれやれ……と振り返ると、被害に遭っていた少年は、すでにいなかった。別に礼を言ってほしいわけではなかったが、雪彦は頬を掻いた。
その後、バイトに遅刻することに気がついたため、後輩たちのいざこざに介入したことなど、すっかり忘れ去っていたが。
「自分で名乗っていたじゃないですか」
にこにこ笑顔で指摘されて、雪彦は机に突っ伏した。黒歴史中の黒歴史じゃないか。大事にせずに仲裁に入るためとはいえ、自分から通り名を名乗るなんて、漫画ですらそんな陳腐な演出はしない。
「あのときの蹴りを見てから、俺はあなたのことを忘れたことはありませんでした」
「葛葉?」
頭を掻きむしっていた雪彦の手に、幹也の大きな掌が重なった。顔を上げると、幹也が慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、見つめている。
いや、違う。目は潤み、頬は赤い。
「あんな風に俺も蹴られたい! 殴られたい! 恥ずかしくて逃げてしまったことを、毎日後悔していましたが、まさか同じ大学に通っていたなんて!」
これはまさしく運命です!
幹也の全身から溢れるのは、慈しみ深い心ではない。肉欲であり、性愛だ。
ぞくりと背筋が震えた。
雪彦はこんな顔をしているし、ヤンキーに染まっていたせいもあって、Sに見られがちだ。寄ってくる女はだいたい、「ウチ、ちょいMなんだよね~」と笑っていた。
けれど、雪彦はニュートラルだ。一般の範疇に含まれるセックスしかしないし、相手を痛めつけることをよしとしない。
「お、俺はSじゃないぞ!」
「いやいや」
何をご冗談を、というノリで、幹也は自身の口元に手を当て、上品に笑った。
冗談を言っているのはお前の方だよ!
机を叩いて抗議するも、どこ吹く風。どころか、「机じゃなくて叩くなら俺にしてください!」と、どこまで本気なのかわからない……いや、どこまでも本気なのだろう勢いで、己の頭を差し出してくる。思わず一発平手で打ってしまったが、喜ぶだけであった。ゾッとして、椅子ごと逃げる。
顔を上げた幹也は、不満を隠そうともしない。ぽってりと肉厚な唇を尖らせる。
「仕方ないですね」
「何が仕方ないんだよ!」
雪彦のツッコミは、ほとんど悲鳴である。
「お友達に、黒高のユキヒョウさんがどれだけ格好いいか、お話してもいいんですか?」
ピタリと動きを止める。
あいつらに、黒歴史が知られたらどうなるかなんて、火を見るよりも明らかだ。面白がって言いふらし、根掘り葉掘り聞いてくるに違いない。あだ名が「ユキヒョウ」になってしまう。
雪彦にとっては、今の友人グループも、高校時代のヤンキーたちと同じだった。
一人でいるのは寂しい。そこに話しかけてきて、嬉しくなって相手をしていたら、いつの間にか囲まれていた。信頼などという言葉とは無縁の関係なのだ。
唸り声を上げた雪彦に、幹也は小指を差し出した。ご主人様と奴隷の専属契約の証にしては、子供っぽいやり方だ。
「大丈夫。雪彦さんには、素質がありますよ」
素質ってなんだよ。
微笑む幹也に、雪彦はこれ以上、抵抗する気も失せ、力なく小指を絡ませた。
>6話
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