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<13話
優と親しくする前の日常に戻っただけだ。会社に行き、仕事をして、帰る。「ステラ」に代わる店をそのうち探さなければ、と思いつつ、行動には移せないでいる。
部下たちからは、ひたすらに心配されている。
顔色が悪い。やつれた。寝てないんじゃないですか。仕事はこっちに任せて、休んでください。
彼らのいたわりの言葉に、薄く笑みを浮かべながらも、忠告は聞き入れなかった。大丈夫だ、と頑なに言い張れば、彼らは何も言えなくなる。
優への怒りは、ほとんどなかった。何もかも、海老沢が悪いのだ。蓋をしていた自己嫌悪が、一気に噴き出した。
先に騙したのは自分の方だ。彼はいつ気づいたのかは知らないが、ただ黙っていただけ。
もしかしたら、最初からかもしれない。叔父とか甥とかごまかして、優を騙そうとしていた海老沢のことを、からかおうと思ってキスを仕掛けてきたのかもしれない。
それなら、傷つくのは自分だけだ。優は、騙されたことに対する復讐を終えたことになる。二十歳の若者のフリをして、恋に夢中になるオッサンは、さぞかし滑稽だったことだろうな。
優のことを考えれば、胸は甘く、ちくりと痛む。いいや、忘れなければならない。これからは、仕事に生きる。恋なんて、しない。する資格もない。好きな相手を騙して、嫌な気持ちにさせていたのだ……。
海老沢は仕事に没頭し、昼休みすらまともに取らない。さすがに同僚たちが心配して、コンビニでサンドウィッチとコーヒーを買ってきて、デスクに置いた。
ちらりと袋の中を確認しても、食欲は沸かない。海老沢は、「ありがとう」と礼を言うが、コーヒーだけ手に取った。
缶を開け、一口飲む。嫌いじゃなかった。でもこれは、こんな味だっただろうか。深みも旨みもない。ただの苦い色水。
「海老沢さーん、受付からです!」
教育するのに音を上げていた新人のギャル社員は、いつの間にか率先して電話対応をするようになっていた。成長著しい彼女にゆるく笑いかけると、海老沢は自分の手元の電話の受話器を取った。
「もしもし、海老沢ですが」
『弟さんが、受付にお見えになっています』
「弟?」
弟の修は、地元で中学教師をやっている。平日に、おいそれと東京に出てくることはできないはずだ。
首を捻りながら、エレベーターに乗って一階まで降りる。
「開発部の海老沢ですが……」
さらに不可思議だったのは、受付担当の女子社員の反応だった。
「あ、海老沢さん。弟さんがお待ちですよ! ……イケメンな弟さんがいらしたんですね! びっくりしました!」
後半は、海老沢の耳にだけ届くように伝えられた。再び「はて?」と首を傾げるはめになる。
弟は、マッチョな老け顔だ。貧弱な海老沢とは正反対で、一緒にいると十中八九、海老沢が弟だと間違われる。生徒たちから裏で「ゴリ沢」と呼ばれていることを気に病んでいる、繊細な一面もあって、兄としては可愛い弟……でもないが、少なくとも若い女の子がきゃっきゃと喜ぶイケメンではない。
それなりに立派な構えの社屋で、ロビーが設けられている。時にはここで、簡単な商談やミーティングも行われることがある。
「おさ……」
座っている後ろ姿に声をかけようとして、海老沢は動きを止めた。弟は、こんな茶髪じゃない。
「ゆう、くん?」
立ち上がり、海老沢を迎えたのは優だった。
どうしてここに? 一度だって海老沢は、彼に職場を教えたことはない。それに今更、何をしに来たんだ?
「エビさん……」
逃げようとして、手首を掴まれる。節ばった大きな手の温かさに、海老沢の身の内は、喜びに震える。
胸にくすぶった恋の残り火が、再び激しく燃え盛ろうとしている。生まれた熱は、当然のように上に昇っていき、脳を痺れて動けなくする。
あ、と叫ぶ間もなく、海老沢は気を失った。無理もない。ほとんど眠れていなかったし、食欲もなかった。海老沢の身体はそのまま、崩れ落ちた。
>15話
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