偽りの魔法は愛にとける(13)

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12話

 日曜日の昼間に、海老沢は優に呼び出され、店にやってきた。

 来るかどうかは少し悩んだ。あと三個しかないキャンディーだ。どのタイミングで若返るべきか判断がつかなかったからだ。

 悩んだところで、キャンディーの数が増えるわけではない。海老沢は変身した状態で「街のふくろう」の扉に手をかける。

 開けた瞬間に、鼻の奥にいい匂いが届いた。アラフォーの貧弱な胃袋が、「それでもこれは食べたい」と叫ぶ、食欲を刺激するスパイスの香り。

「カレー、ですか?」

 パタパタとカウンターに近づくと、優が笑顔を向けてくる。

「そう。昨日の晩から仕込んでるんだ」

「すごい。美味しそう」

 ルーを使わず、スパイスから手作りした本格カレーだ。客には今日、明日と三日煮込んだものを提供する予定だが、味見も兼ねて一緒に食べようと誘ってくれたのだ。

「本当は、ナンも手作りできたらと思うんだけど、こればっかりはね」

 炊飯器からよそうライスは、ほんのりと黄色く色づいている。

「これは?」

「ターメリックライス」

 海老沢の分は、少なめに盛ってくれている。胃腸が強くないことは、優もすでに把握している。足りなければ、そのときおかわりすればいい。

「いただきます」

「どうぞ」

 初めて作ったから、美味しくできているかどうか不安だと優は言う。彼の料理がまずいわけがない。海老沢は一口食べて、あまりの熱さに跳びあがった。

「あっ、ひゅい!」

「あ~! 水、水!」

 差し出された水のグラスには、氷が入っていない。海老沢は冷たすぎるものが得意ではない。腹を壊してしまう。この姿のときは、優にそう言ったことはなかったはず。

 あれ? そういえば初対面で熱中症だと思われたときですら、氷は入っていなかったような?

 何か引っかかったが、「大丈夫?」という顔で見つめてくる優に、疑問はどこかへ消え去ってしまう。

「熱い……けど、美味しいです! 野菜の甘みが感じられて、あ、でも辛い」

 後からじんわりと追いかけてくる辛さが、舌の火傷に追い打ちをかける。ビリビリと痛い。訴えると、優が「見せて」と言う。

 素直に海老沢は、従った。舌を出すと、不意打ちのように唇が重なるので、驚いて引っ込めてしまった。

「っ、もう、何するんですか!」

 さすがに火傷したばかりの舌を絡ませるわけにはいかないと、お互いに理性が働いた。ごめん、と笑いながらも優は、「カレーは美味しくできたようでよかった」と言う。海老沢とのキスの味を示していて、頬がカッと燃えた。

「もう!」

 知らない! と、海老沢はカレーに向き合うことに集中する。先程の二の舞にならないように、しっかりと冷ましてから口に入れる。美味しいものの効果は絶大で、海老沢の機嫌はすぐに直る。

 食べ終えた後の片付けは、二人でやる。作ってもらったのだから、皿洗いは自分ひとりで、と海老沢は主張したのだが、優は首を横に振る。

「一緒に作業するのが、楽しいんだよ」

 それは確かにそうだ、と海老沢は同意する。

「それに、エビくんがお皿を割らないかどうかも心配だし」

 恋人として付き合うようになってから、海老沢は優の少し意地悪な面を知ることになった。からかって、海老沢の感情を波立たせるのが楽しいようで、笑いながら「ごめんごめん」と言えば、無罪になると思っている。もちろん、許してしまうのだけれど。

「ひどい!」

 言ったそばから、海老沢は手を滑らせて、皿をシンクに落としそうになる。慌ててキャッチしたのは優だった。

「ほらね」

 そう言う彼に、膨れてみせるけれど、長くはもたなかった。見上げれば、世界で一番格好いい顔があって、海老沢のことを愛情のこもった目で見つめてくれる。

 今日のことを思い出に、生きていこう。

 海老沢は最近、そんなことばかり考えている。キャンディーはラスト二つ。二個いっぺんに口に含めば、効果は倍になるだろうか。たくさんあったときに、実験しておけばよかった。

 三時間の時間制限があるから、優とのデートは昼間だけ。店で手伝いをしながら、手を繋いだり、キスをしたりする。

 夜、ベッドを共にすることはない。長いこと誰とも寝ていない海老沢の身体は、硬く閉じてしまっている。先日、風呂場で触れてみたが、未経験の状態に戻ってしまったかのように、萎縮していた。

 繋がるためには、どれほど時間がかかるだろう。また、完遂できたとしても、余韻に浸っている暇はない。スマホのアラームが鳴ったら、服を着てドタバタと出ていかなければならない。

 六時間あればなんとか、とも思うが、確証がないのに、最後の二個を使い切ることはできない。だから海老沢は、自分に言い聞かせる。

 セックスなしで別れた方が、傷は浅いぞ、と。

 キスでさえ、こんなに高揚するのだ。セックスしてしまえば、海老沢は優の前から姿を消すことができなくなってしまうかもしれない。

 海老沢は、フェードアウトの道を選ぶことにしていた。真実を話して、恨まれるのが怖い。

 それ以上に、優が自分を憎み、執着するようになってはいけないのだ。彼がまっすぐ、新しい恋に向かっていけるように、海老沢は「エビくん」の存在を消す。

「ねぇ」

「ん?」

 シャボンが浮かんで、パチンと弾けた。

「キスしてほしいです」

 海老沢からキスをねだるのは初めてで、優は驚きながらも喜んだ。

 濡れた指が、海老沢の下唇をなぞる。目を閉じて、吐息が近づいてくるのを感じた。

 そのときだった。

 来客を告げる鈴が鳴った。慌てて目を開けて、身体を離そうとするものの、すでに遅い。

「……開いてるみたいだから、寄ってみたんだけど」

 男同士のラブシーンを目撃してしまっただろうに――ましてそれが、自分が想いを寄せる男のものだったというのに、彼女の声は冷静だった。

 優狙いの若い女だ。以前酔っぱらった状態で来店し、優を困らせていた。海老沢は見られたことに混乱し、硬直する。

「何かご用ですか?」

 優の声は、先程まで海老沢とじゃれていたときの甘いものではなかった。海老沢の肩を引き寄せたのは、ただの店主と店員の関係ではないことを示すためだろう。

 その行動が、理性的だった彼女の嫉妬心に、火をつける。

「どうして? なんでよ!」

 もはや責める言葉も理屈ではなく、ただただ感情を発露させるだけ。

「僕は何度も言いました。あなたとは付き合えません。若い女性は好きじゃないので」

 淡々とした声音に、優を責め立てても無駄だと判断したのか、女の目は海老沢に向く。ぴしりと指を突き付け、彼女はありえないことを言った。

「こんなオッサンに負けるなんて、納得いかない!」

「!」

 息をのんだのは、海老沢だけじゃなかった。隣に立つ優も、喉を鳴らした。

 オッサン、と女は海老沢を指して言った。今の海老沢は、若返っているはずなのに。どうして。タイムリミットまでは、まだ時間があるはず。

「……僕は、いくつに見える?」

 はぁ? と女はイライラしながら、鏡を取り出した。海老沢に突きつけると、

「どう見たって、アラフォーのおっさんでしょうが!」

 と、叫ぶ。

 鏡に映った姿を見てもなお、海老沢には二十歳の頃の自分にしか見えない。だが、輪郭がぐにゃりと曲がり、元の自分の顔も入り混じっている気がする。

「どういう……」

 優を見上げると、彼はこわばった顔をしていた。それを見ただけで、海老沢は悟った。

 すべては茶番だったのだ。優は、「エビくん」が叔父の海老沢と同一人物だと知っているのだ。

 肩を抱く腕を引きはがし、突き飛ばす。

「全部、知ってたんでしょう?」

 思ったよりも冷静な声が出た。感情的になってしまえば、女と同じになる。それだけは避けたいと思った。

 それでも、溢れてくる涙だけは止められなかった。

「エビ……」

 くん、なのか、さん、なのか。聞きたくなかった。

「騙してて、ごめんなさい。さようなら!」

 荷物を持って、ひた走り逃げる。追われれば、体力も走力も劣る海老沢は捕まってしまっただろうが、優は追いかけてこなかった。悲しくて、悔しくて、海老沢は逃げ帰る。

 スマートフォンのアラームが、むなしく響いていた。

14話

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