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<4話
青年はサトルと名乗り、人のいい笑顔を浮かべた。キラキラ輝いているその目は優しさに満ちていて、百合子はペラペラと思いのたけを話した。
何年にも渡る付き合いの友人たちには、下手なプライドが邪魔をして、打ち明けられなかった。辛い失恋話を、サトルは時折相槌を打ちながら、黙って聞いてくれる。
百合子はときどき、想いが涙となって込み上げてきて、まともに喋れなくなった。彼は百合子の背中をゆっくりと撫でて、落ち着かせてくれた。
文也は百合子に、指一本触れることがなかった。思えばあのときすでに、脈はなかったのだ。
気づかなかった自分の浅はかさに、後から後から涙が頬を伝い落ち、化粧が溶けてドロドロになる。マスターは黙って、水の入ったグラスと熱いおしぼりを百合子の前にそっと置いた。お礼を言おうと思ったが、言葉はすべて嗚咽になって潰れてしまった。
顔を拭くと、だいぶ落ち着いた。鼻をすん、と啜った百合子は、汚れたおしぼりを見て、自分が地味な素顔をさらけ出していることに気がついて、下を向いた。
「ごめん」
サトルはなんで謝るの、と柔らかく百合子を包み込んだ。
「さ、三十過ぎのおばさんのスッピンなんて、見たくなかったでしょ」
また涙腺が刺激される。百合子の震える声に、サトルが声を上げて笑うので、何事かと顔を上げた。すると、彼はとろけるような甘い視線を百合子に注いでいた。
「そんなことないよ。百合子さん、めっちゃ肌きれいじゃん。ぷにぷにもちもちしてるの、すげえ好き」
長い指先が、百合子の丸々とした頬に触れる仕草が、とても自然だった。照れることも逃げることも忘れて、百合子は男の手を受け入れていたが、すぐにはっとして振り払う。
「お、大人をからかうんじゃないの!」
二十歳そこそこの青年が、十歳以上年齢も違う初対面の女に、「好き」なんて気軽に言う理由を、百合子は罰ゲーム以外に思いつかなかった。
近くのテーブルの若者たちが、にやにやしながらこちらを窺っているのではないか。被害妄想に駆られて、百合子は辺りを見回した。
「百合子さん」
サトルは水割りのグラスを傾けて、真剣な声のトーンで言う。
「……別に、からかってるつもりはないよ。こんな風に一途に可愛く想ってくれる人がいるのに、その人は見る目がないなって思っただけ」
「彼のこと、悪く言わないでよ!」
思わず声を荒げてしまった。衆目を集めていることに気がついて、百合子は恥じ入って視線を逸らした。
馬鹿な女だと思われただろう。自分を振った男に執着する、ストーカーじみた怖い女だと思われたに違いない。
けれど、サトルはしみじみと呟いた。
「本当に、その人のことが好きなんだね」
責めるでも咎めるでもなく、呆れるでもなかった。ただただ温かいその言い方に、百合子の目からは再び、涙が伝い落ちていった。
頭をぽんぽんと一定のリズムで叩いて、サトルは慰めてくれる。
きっと、いろんな女の子に対して同じことをしているんだろうな。
思ったけれど、嫌な感じはしなかった。
「そんなに好きならさ、諦めること、ないと思うよ」
顔を上げた百合子は、眩しいほどのサトルの微笑みを直視して、頭が真っ白になる。
「彼の気を引くようなこと、試してみたらどうかな」
例えば、と彼は一度、言葉を切った。黙って見つめてくる彼の瞳が意味深で、百合子も「例えば」と繰り返す。
サトルは微笑むと、百合子の頬に触れた。
「……考えてみて。もう振られてるんだから、逆になんだってできるんじゃない?」
サトルは具体的なことは何一つ言わなかった。それから、
「俺、週末はこの店に来ようかな。百合子さんに会えることを期待して」
と、一方的に言い置いて、店を出て行った。
年下のイケメンに構われることなんて、これまでの人生で一度もなかった。アルコール以外の原因によって、ぽーっとしながら、百合子はサトルの言葉を反芻していた。
そうだ。百合子は完全に振られているのだ。連休前に見た、文也の顔を思い出す。
『あなたのことをどうするか、わかりませんよ?』
人の好い笑顔はそのままなのに、ぞくりと背筋が震えるような声だった。夏織に嫌がらせをしたら、どうなってしまうのだろう。文也に、何をされてしまうのだろう。
それは、淡い期待でもあった。すなわち、夏織にアクションを起こせば、文也に構ってもらえる。ただの優しい男ではなく、危険な魅力を伴った男に。
無論、最低最悪に嫌われてしまうかもしれない。
グラスの中の水を口に含み、百合子は決意する。
それでも構わない。無視される方が、よっぽど辛いのだ。
>6話
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