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<31話
「大丈夫大丈夫。ちょっと痛いだけだから」
それでも彼女は不満そうである。笑みを浮かべていることが多いので、唇を尖らせているシーンは珍しい。思わずまじまじと見つめていると、視線に気がついたのか、彼女がこっちを見た。
慌てて視線を外し、
「そうだ。誰かに連絡しないとな」
とスマートフォンを取り出した。あの調子では、山本は先生に俺たちのピンチを伝えないかもしれない。というか、頂上にちゃんとたどり着けるのかすら危うい。教師の番号を知らされていないのは、こういうときには不便だ。俺は少し考えた末、トークアプリを立ち上げて、柏木に連絡をする。
柏木たちのグループは、きっと先生に「山の頂上で、スマホばかり弄って!」と言われようが、スマホをちょくちょくチェックするに違いない。案の定、すぐに既読がつき、コール音がした。
「お~。柏木」
『ちょっとあんた、何やってんのよ!』
電話口からは、他の女子の声は聞こえなかった。そして柏木は怒っているのに、やたら小声である。あまり俺たちと交流があることを、ばれたくないからだろう。
「悪い悪い。先生に伝えてくれるか? 俺はちょっと足捻ったみたいだけど、呉井さんは無事だよ」
『っ、……怪我、してるの?』
思ったよりも彼女は心配してくれていて、ちょっと悪かったな、と思う。大丈夫だと重ねて言うと、柏木は話しながら移動していたらしく、担任に代わると言い出した。
怒鳴られるかと思ったが、担任も「大丈夫か?」と心配してくれた。すんません、と神妙な声で謝罪して、彼の指示をうんうん頷きながら、聞く。
「わかりました。はい。おとなしく待ってます」
通話を切って、呉井さんに向き直る。
「頂上のセミナーハウスみたいなところに、常駐のレンジャーさん? 的な人がいるから、その人と一緒に助けに来てくれるって」
そう、と彼女は言う。落ち込んでいる様子の彼女に、積極的に声をかける気にはなれずに、俺はなんとなく沈黙を保った。いつもは意識しない、草木が風に揺れる音がはっきりと聞こえる。目には見えないけれど、虫の羽音も聞こえてきて、俺は虫よけスプレーを自分のリュックから取り出した。
「使う?」
刺された跡が残ったら大変だ、と先に女の子である呉井さんにスプレーを渡す。彼女は小さく頷いて、露出した首や手に噴射していく。
「どうして、わたくしを助けてくれたんですか?」
「え?」
スプレーを渡しながら、呉井さんは信じられない質問を投げかけてくる。どうして、と言われても。
「目の前で友達が危ない目に遭ってたら、助けるのは当然」
咄嗟に身体が動かないこともあるかもしれない。でも今回、俺の身体はスムーズに動き、呉井さんに手を伸ばすことができた。一緒に落ちてしまったのは、格好悪いし、俺の能力が低すぎた結果に過ぎない。
「でも……明日川くんが助けてくれなかったとしても、わたくしはこんなところでは、死にませんよ?」
まじまじと呉井さんの顔を見る。彼女の目は空っぽの皿のようだ。丸い目はつややかで濁りがないが、何の感情も乗っていない。本気で自分は崖の上から落ちても死なないと、信じているのだと俺は悟る。
たまたま今回は、運がよかっただけだ。打ちどころが悪ければ、階段から転げ落ちただけで、人間は簡単に死んでしまう。ましてごつごつした岩もある山ならば、本当に死んでしまったとしても、おかしくはなかったのに。
「わたくしが死ぬ理由は、決まっておりますから」
呉井さんは微笑みを浮かべて俺を見つめる。
背筋がぞくりと、寒くなった。
人間は自分がいつ死ぬかなんて、誰もわからない。何事もなければ寿命でこの世を去るだろうが、若いうちに不治の病に侵されてしまうかもしれない。明日、交通事故に遭遇するかもしれない。
なのに彼女は、笑って確信しているのだ。
自分自身の寿命さえ、コントロールできるのだと。
その笑顔は、マッド・クレイジーとあだ名されるにふさわしいものだと思った。異世界転生を夢見て、明後日の方向に向かって努力している姿よりも、時代錯誤な物言いや仕草よりも、よほどマッドで、クレイジーだ。
どうしてそんな風に感じるのか、このときの俺は、まだ腑に落ちていなかった。よく考えれば、彼女が何を考えているのか、わかったはずなのに。
ただただ、異様さに圧倒され、救助を待っていた。助け出されたときには、ホッとした。念のために、と呉井さんも一緒に病院に行った。そのときには、すでに彼女の目はいつもどおりの、透き通った美しい瞳に戻っていたので、俺はこの日の彼女の危うさを、忘れていた。
>33話
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