ごえんのお返しでございます【31】

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ごえんのお返しでございます

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<<3話のはじめから

【30】

 一緒に行く、と言ってくれた大輔の予定に合わせた、木曜日。肉のフジワラは木曜が定休だった。店まで行くと、「よぉ」と、すぐに彼は出てきた。

「渚も行くって聞かなかったけど、あいつはガッコがあるしな」

 彼女は意外と勉強家で、栄養士になるための勉強をしている。魚屋の娘として、家庭での魚介類の消費量の減少に、歯止めをかけたいのだとか。

 篤久の家を見上げる。前回来たとき、僕は彼の有様に息をのみ、逃亡した。今度もまた、目を背けたくなるかもしれない。

 不安を感じ取ったのか、大輔は僕の肩をぽん、と叩いた。見上げれば、「大丈夫」と、微笑んでくれる。

 僕はポケットに入れたはさみの感触を確認する。キャップも何もない、古い糸切りばさみをむき出しで持ち歩いている緊張感があった。

 二階建ての篤久の家。見上げる窓は、彼の部屋だ。

 呼び鈴を押す役目は、大輔に譲った。親友という顔をしていながら、長く顔を出さなかった僕よりも、彼に矢面に立ってもらった方が、話はスムーズに進む。

 玄関まで出てきた篤久の母親は、大輔と僕を見て、ちょっと複雑そうな顔をした。見舞い客が来たことを喜んでいる一方で、どうしてうちの息子だけがこんな目に遭っているのかと、やり場のない憤りを抱えている。

 篤久の母の顔を、正面から受け止める気には到底なれずに、僕はうつむいた。大輔は僕を励ますべく、尻を叩く。

「お久しぶりです。篤久くんのお見舞いに来ました」

 真面目な顔をしていると、彼はやっぱり自分とは違う、大人の男なのだと感じた。僕は顔をまともに見られなくて、大輔の後ろに隠れている。

「でも……あの子は今、普通の状態じゃないから……」

 悲しげに顔を伏せた母親は、憔悴しきっている。篤久だけじゃなくて、彼女も病人だ。今にも倒れてしまいそうで、大輔は「お母さん、大丈夫ですか?」と、声をかける。

「いや、大丈夫じゃないっすよね。ずっと篤久のこと心配してんですもんね。しんどいでしょう? ちょっと休みませんか? その間、俺らが篤久のこと、ちゃんと見ておくんで」

 するりと年上の女性の懐に入り込んでいく話術は、職業柄身についた、接客スキルだろう。

 個人商店の若旦那ともなれば、子どもの頃からよく知ってくれているおばさんたちに可愛がられることも、仕事の一部だ。

「お母さんまで身体壊したら、元も子もないよ。ね? お母さんが元気じゃないと、篤久も治るもんも治んないっす」

 下手に出て、年下の人懐こさで懐柔する。

 篤久の母も、大輔のことはよく知っている。肉屋の跡取りとして、息子の先輩として。

 彼が熱心に自分のことを心配してくれるものだから、目に見えて態度は軟化していった。

 頬に手をあてて、自分が痩せ衰えたことを今初めて実感したかのように彼女は驚き、「そう、ね……」と、弱々しく頷いた。

 大輔は気が変わらないうちに、彼女を寝室へとエスコートしていった。その間、玄関で靴を脱ぐことすらせずに待ちぼうけていた僕に、戻ってきた彼は、顎をしゃくって促した。

 篤久のもとへ向かう。一歩一歩、階段を踏みしめる度に、絞首台に昇る死刑囚の気持ちを味わうことになる。

 篤久は被害者で、僕の罪を決める裁判官。僕は彼のことを傷つけた加害者だ。

 そんな僕が彼を救おうとするなんて、おこがましいのではないか。

 何度も立ち止まりかけた僕を、後ろから大輔が支え、背中を押してくれる。振り向けば、ゆっくりと大きく頷いて、僕の勇気を奮い立たせてくれる。

 ここまで来たら、逃げるわけにはいかない。ポケットの中の糸切りをぐっと握りこむ。金属の手応えは冷たく硬質だ。頭を冷静にしてくれる。

 扉の前に立った。まずは大輔がノックをして、声をかける。

「篤久? 俺だ。大輔だよ。ちょっといいか?」

 返事はない。事件後の篤久について全然知らない大輔は、不思議そうな顔をして僕を見つめる。僕は首を横に振る。反応がないのが、普通なのだ。彼は今、妄想の世界で生きている。

 僕らは篤久の反応を待つことなく、扉を開けた。

 最初に感じたのは、臭いだった。汗と埃、食事を食べ散らかしたあとの腐敗臭もかすかにする。夏にこの臭気は堪える。扉を開けたまま、僕らは篤久に声をかけた。

 篤久は、ベッドの上に座っていた。野球少年だった彼の面影は、一ミリも残っていない。日がな一日動かずにいるせいだろう、彼の頬はこけているのに、身体はぶよぶよと弛んでいる。

 大輔は、記憶の中の篤久との違いに一瞬よろめいた。ぐっと持ちこたえて、大きな声を出す。

「篤久、おい!」

 彼は応えない。聞こえていないのか、心に届いていないのか。

 今もなお、指にぐるぐると赤い糸を巻きつけて、「これは美希ちゃん」「これは聡子さん」「これは……」と、あれだけの恐ろしい目に遭ったというのに、いまだに聡子のことも想っているらしい。

 その糸にはもはや、効果はない。今の彼には、相手と結ばれたいという信念はひとかけらも残っておらず、壊れた心が動作を繰り返すだけなのだ。

 こちらを見ることすらしない篤久に、大輔はしびれを切らす。単純極まりない体育会系の手の早さで、殴りつけてでも正気に戻してやると、拳を握った彼を、僕は慌てて止めた。

 僕には、赤い糸以外のものが見えていた。糸子から借りた糸切りばさみのせいかもしれない。根元が鬱血して黒くなっているだけじゃなく、彼の指には、黒い糸が巻きついていた。

 これが、妄執の糸。

 僕はごくりと唾を飲み込んで、とっさに自分の手を見つめた。糸子が僕にも絡みついていると言った黒だが、あいにく、自分自身のことは見えないらしい。残念なような、安心したような。

 そっと近づいて、僕は篤久の手を握った。ようやく彼の目が、こちらを見る。ただし、僕が誰なのかわかっていない。感情のこもらぬ目だが、快と不快は表せるらしい。邪魔をするなと振り切られそうになるが、負けやしない。

「大輔さん!」

「おう」

 僕は大輔に、篤久の身体を押さえ込んでもらった。うー、うー、と獣じみたうなり声を上げる篤久の口の端から、よだれが落ちた。自分の肌につくのもいとわずに、僕は彼の手の赤い糸を慎重に断ち切っていく。

「二年生の佐藤先輩は、もう彼氏がいる!」

 ジャキン。

 細い糸を切るだけなのに、刃が擦れ合う音は、普通のはさみで紙を切るときよりも激しい。

「聡子さんは、刑務所で後悔してる!」

 最初は暴れていた篤久だったが、僕がひとりひとりの名前を呼んで糸を切っていくごとに、徐々に動きが弱まっていった。

 正気に戻すことができるかもしれない。僕は希望を胸に、はさみをふるう。

 だが、一本だけ、どうしても切ることができない糸があった。

 右手の小指。篤久が、最初に結んだ場所だった。美希のことを純粋に想い、自分から話しかけることができなかった彼が、いじましい願いを掛けて結んだ糸。

「紡。変わるか?」

 抵抗をやめておとなしくなった篤久を見て、非力な僕でもどうにかなると考えた大輔の提案に、僕は首を横に振った。このはさみを扱えるのは、きっと、糸子に直接渡された僕だけだ。

 僕にしか見えない黒い糸は、最後に残った赤い糸にがっつりと絡んでいる。

 美希への赤い糸を結ぶ場所に、黒い妄執の糸が食い込んでいるのは、なぜだ。

 まじないの結果として、美希は篤久に惹かれた。それはかりそめの関係でしかなく、事件のあとは黒歴史となっていた。篤久のことを、恨んですらいたかもしれない。

 だが、執着するほど憎むとすれば、その相手は篤久ではないだろう。死してなお復讐したいと思うのは、僕か美空に違いない。生前から、彼女は僕らの関係をよく思っていなかったのだから。

「……ちゃん」

 篤久の口が震え、何事かを紡ぎ始めた。様子がおかしいことに気づいた大輔は、「おい、篤久?」と声をかけるが、篤久はぶつぶつと念仏のように唱え始める。

「みきちゃん、みきちゃんみきちゃん……みきちゃん」

 美希の名前だとわかった瞬間、僕はようやく、黒い糸の主を理解した。

 これは、美希や他の女が篤久に執着しているために見えるのではない。

 篤久が、美希に執着しているのだ。

 絡みついているのではなく、本当は美希のもとへ向けて伸ばしたいのだが、彼女はもういない。行き場がなくなった結果、仕方なく、篤久の小指にとどまっているのだ。

 僕は大きく息を吸った。篤久の頬を張り、肩を掴んで叫ぶ。

「美希ちゃんは、死んだ! お前がそうやって執着し続けたら、彼女は天国にいけない!」

 怯んだ篤久の目に、わずかに正気の光が浮かぶ。その隙を逃すわけがなかった。

 ジャキン。

 赤い糸、黒い糸がはらりと落ちた。

 同時に、篤久の目からも涙が。

 憑き物が落ちたかのように、彼は静かに涙をこぼしはじめ、嗚咽した。

「美希ちゃん……死んだ? なんで?」

 背中を擦りながら、僕は「交通事故に遭ったんだ。お前のせいじゃないよ」と、篤久を慰めた。

 多くを語れば、彼はさらなるパニックを起こす。彼女の心臓が双子の姉妹に移植されたと知れば、篤久は今度は、美空に執着を見せるのではないかという恐れがあった。僕はもう二度と、あの子には関わりたくない。

 何よりも、篤久にこれ以上、憎まれたくなかった。

 僕は、彼の涙を、黙って見守った。

 真実を語る勇気は、僕にはない。

【32】

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