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<<3話のはじめから
<【29】
引き返してきた僕のことを、糸子はちらりと見上げた。いつもと違う。そう思ったのは、彼女がずっとこちらを見据えているからだ。普段はすぐに目を逸らすのに。
微笑みを絶やさない彼女は、人差し指を立てて、くるりと中空で回した。見えない糸を巻き取る仕草に、ぞっとする。
だが、今日の僕は逃げるわけにはいかなかった。
「篤久を救う方法を、教えてください」
くるくるくる……本当に糸がそこにあるように、彼女の動きは止まらない。しばらくそうしていたかと思うと、ぎゅっと拳を握り、張力を確かめるように引っ張る。それから彼女は、手元にあった糸切りを手にした。
家庭科の授業に必要だからと買わされた、裁縫セットの中に入っているのとは違う。あれは持ち手がプラスチック、こちらはすべて金属でできた、昔ながらの和裁用の糸切りだ。ぐっと力を込めて、彼女は見えない糸を切った。
その瞬間、ふっと肩が軽くなった気がした。僕にのしかかっていた何かが消えたみたいな。
「何を……?」
「あなたが最初に店に来たときから」
僕の問いに覆い被せるかたちで、糸子は語り始める。ハサミを置いて、彼女は僕を見つめる。
頭や顔に触れないよう、僕に手のひらをかざして、ゴミを払うように動かす。
「ずっと私には、見えていたわ」
絡みつく、黒い糸。
「黒……?」
思わず、店の中の黒い糸を入れてある棚を見た。彼女の言わんとしていることは違うとわかっていても、とっさに引き出しを確認してしまう。
実際に使用する手芸用の糸も各種そろっているから、赤や白だけじゃなく、色とりどりの糸がある。もちろん、黒いのも。
「黒は、妄執」
「もうしゅう……?」
ピンと来ない僕は、口に出してようやく、「妄執」であると理解する。
真実が見えなくなるほどの、執着。それは、刃物を持ちだした聡子が見せた感情ではないか。美希の心臓がもらえるのだと、事故の一報を聞いたときの美空の表情ではないか。
「誰が」
彼女は首を横に振る。
「そこまでは、私にはわからない。今は」
むしろお前に心当たりがあるのではないか。
黒い瞳は詰問してくるが、僕にはさっぱりわからなかった。
クラスの中で孤立はしているものの、従来僕は、人に忌み嫌われることもなければ、特に好かれることもない、何の変哲もない地味な男だ。
「切原紡」
うんうん唸りながら必死に考えている僕の名前を、糸子は呼んだ。フルネームで呼ばれると、なんだか気持ちがぴりっとなる。背筋を伸ばして、「はい」と、返事をする。
「あなたの名前は、特別。縁を切り、そして紡ぐ。どちらも入っているから……だから、声をかけた。あなたを縛るこの黒い糸に、興味がある」
ぶつり。
僕にも糸が切れる音が聞こえた気がした。
「僕にも、そのハサミは扱えますか」
彼女は微笑み、ハサミを差し出した。何度か握りしめて力加減を確認する。
縁を結ぶも切るも、信念あればこそ。
僕の名前が特別で、他の人よりも少しだけ、この意志に力があるのなら、篤久の気持ちを変えることができるはず。
糸子に頭を下げると、彼女はもう、僕に興味をなくしていた。
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