<<はじめから読む!
<41話
「俺がMになった理由、話しましたっけ?」
幹也は母親に、物心つく前から虐待されていた。泣けば叩かれ、泣かずとも「生意気だ」と蹴り飛ばされる。母の顔色を窺ってばかりいる生活だったけれど、時折母は、正気に戻り、幹也を抱き締めてくれた。
「今思えば、いつだって正気だったんでしょうけど。ただ、俺の口から虐待の事実を他の大人に告げ口されるのが怖かっただけで」
母親は幹也の頭を撫で、泣きながら「愛してる」と言った。殴られる度に言われるものだから、幹也の心にはとんでもない勘違いが、刷り込まれてしまった。
すなわち、暴力イコール愛である、と。
母の平手は愛情であると受け入れた幹也は、彼女の死後もその思い込みを正せないままだった。引き取られた葛葉の家でも、待っていたのは暴力であった。勉強のストレスの捌け口として兄に殴られ、「お兄ちゃんは、ぼくのことを愛するために、たたいてくるんだ」と思い込んで微笑んだ。せっかくできた兄だ。もっと愛してほしかったから。
暴力を振るう度に笑う子供が不気味で、次第に兄は幹也から離れていった。幹也はいつも独りぼっちで、愛に餓えていた。
そんなときに、SMの世界を知った。これだ、と思った。Sのご主人様がいれば、自分はずっと、愛してもらえるのだ。理想のご主人様を探そう。ずっと傍にいてくれる、心優しいご主人様を。
そうして出会ったのが、雪彦であった。
「雪彦さんが、Sじゃないのに俺のこといたぶって、興奮してくれるようになったときは、すごく嬉しかったんです」
幹也の中では、SMプレイとセックスはまるで別物だった。雪彦の前のパートナーたちは皆、男も女も最終的には挿入行為を望んだが、幹也は受け入れなかった。セックスなんて、何がいいんだ。愛は痛みだ。そして痛みこそが快楽。
けれど、雪彦と少しずつ関係を深めていく中で、幹也の心の奥底から、「彼と繋がりたい」という欲望が叫び始めた。
「雪彦さんの首を絞めてしまったのは、愛されるだけじゃなくて、愛したいと思ったから」
幹也には正しい愛し方がわからない。
咳き込む雪彦を見て、幹也は恐ろしくなった。自分が雪彦を愛そうとすれば、殺してしまうかもしれない。
愛されることを願うばかりで、愛したいと思ったのは初めてだ。力加減のできない自分にぞっとして、幹也は雪彦を露骨に避け始めたのだった。
「好きな人をこの手で傷つけるのが、怖かった……こんなことを、あなたにもさせていたんだと思うと、申し訳なくて」
「葛葉」
握りしめて真っ白になった手を、雪彦は優しく取った。柔らかく、傷ひとつない甲に、口づける。
「俺を傷つけたくないと思ったんだろ。それは、お前が正しい愛し方を知ろうとしているってことだ」
「そう、でしょうか……」
指の一本一本にキスを落としながら、雪彦は幹也の深い愛情を感じていた。
幼い頃の思い込みは、そう簡単に解けはしないものだ。何か大きなきっかけ、衝撃といっていいほどの出来事がなければ、氷解しない。幹也の場合は特に、母親から愛されていたと信じたかったから、余計に強く刷り込まれていたに違いない。
その縛めが、自分をきっかけに緩んだのならば、こんなに嬉しいことはない。ただ「好き」「愛している」と囁かれるよりも、大きな感情を寄せられているということがわかる。
「これから正しい愛情表現、教えてやるよ」
「はい……いっぱい、教えてください」
雪彦は幹也の頬を両手で包んだ。右の親指を彼の唇に押し当てる。途端にとろりと幹也の目が期待と小さな欲情のさざ波に溶けていく。
「まずはキスをしても?」
キスは彼の中では、今まで愛情表現と結びついていなかった。だからあの日、図書館では逃げられてしまった。でも、今なら。
幹也は答えの代わりに、目を閉じた。
>43話
コメント