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<25話
向こうに残してきた友のことを思っていた日高だったが、メモを取っていた早見が妙な顔をしていることに気づいた。虚を突かれたとでもいう表情である。
「あの、早見さん?」
早見はぶつぶつと独り言を言っている。顎に手をやり、考え込んでいた。
「翡翠湖……いや、この湖は確か、紅蓮湖と言ったはずだが」
「え?」
早見は手元で素早くスマートフォンを操作する。確かにこの湖の名前は、紅蓮湖と書いてある。よく見れば、ボート小屋の看板にも、「ぐれん湖ボート乗り場」と赤い文字が書かれていた。逆に翡翠湖で検索しても、この湖を指す情報は何も出てこない。
「これはいったい、どういう……?」
「わからん。ひとつ確かなことは、おそらくこの湖が、特別な意味をもつ場所だということだ」
日高がこの世界にやってくるきっかけとなった翡翠湖。
そして、早見が捨てられていた紅蓮湖。
名が違うだけの同じ場所に、どんな関係性あるというのだろう。
戸惑うばかりの日高をよそに、早見は湖周辺の写真を撮って回った。何がヒントになるかわからないから、と。
「こちら側にも、何か伝承が残っているかもしれない。そうすれば、君を元の世界に……」
「帰りたくない」
はっきりと言葉にした日高に、早見は瞠目した。
「あんな世界、帰りたくない!」
翡翠姫と同じように、日高もまた、自分自身の性を呪っている。好いた相手と添い遂げることが、他の性に比べて難しい。
発情したオメガのフェロモンは、アルファを例外なく誘惑する。アルファから注がれる子種に、オメガは……日高は逆らえない。
心残りは友威のことくらいで、それ以外は絶対に、こちらの世界の方が幸せだ。たとえ、早見のコテージの外に行くことができない、窮屈な暮らしだとしても、ずっとマシだ。
「ずっとここにいたい……」
何よりも、目の前の男が向こうの世界にはいない。
いや、いるのかもしれない。けれど、それは日高の知る早見岳という男ではない。
得体の知れない日高を助け、受け入れてくれた。そして日高も、彼の孤独を慰めたいと思った。
こんな気持ちは、初めてだった。親友とは違う。友威は早見と同じくらいイケメンだた、触れたいとは思わない。
けれど、目の前にいる早見には。
無造作に下ろされた大きな手を、握りたいと切望する。
そうか。これが、人を好きになるということ。生殖本能だけではない。恋をするということ。
けれど、絶対に結ばれることはない。これもまた、自分の憎む運命か。
ぶわりと涙を溢れさせた日高を、早見は痛ましい目で見つめる。彼は日高を励まそうと、触れることはなかった。
「駄目だ」
「どうして」
俺のことが嫌いだから、そんなこと言うの?
思わず近づいて、彼の胸に縋る。恋愛ドラマの面倒な女、オメガのようだと自嘲する。自分が一番、なりたくなかった姿だ。
早見は日高の肩を掴み、ただでさえ鋭い目に力を入れ、優しく引きはがす。
「この世界に、オメガはいないんだ」
抑制剤が存在しないだけではない。日常で意識することはないが、日高は産むことのできる性。相応の器官が、体内には備わっている。
もしもそれら臓器に、何か病気があったら? この世界の医者には対応できない可能性が高い。最悪、命に関わることになる。
「俺が、それでもいいって言っても?」
早見はゆるゆると首を横に振った。
「俺が、生きていてほしいと思うんだ」
早見の心からの願いに、日高は小さく頷いた。
頷くしかなかった。
>27話
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