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<4話
言われた言葉の意味を、半分も理解することができなかった。心臓がドクリと脈打つのを、はっきりと感じる。逃亡中とは違い、冷や汗はかいていない。むしろ、熱が身の内側から生じている気がする。
自分の体の妙な反応に、最も戸惑っているのは日高自身であった。
動きを止めた日高を、早見は事態が飲み込めていないものと思ったのだろう。再び、言い含めるように彼は、「この世界には、第二性はない」と言った。
二度言われて、じわじわと日高の中に困惑が広がっていく。心臓が再び嫌な音を立て、頭のてっぺんへと到達した瞬間、パニックに陥った。
「えっ……え? じゃあ、俺は、何? 俺はオメガで、発情期があって、それで父親に……」
「落ち着け」
細かく震えだした日高の背を、早見はゆっくりと、その大きな掌で撫でた。上から下へと往復する。
アルファに、いや、彼の話が真実であれば、彼はベータですらない。自分よりずっと体格のいい男に触れられている。なのに、なぜだろう。どこか、安心感すらある。
早見の与えるリズムに、次第に日高の呼吸も整っていった。
日高に触れながら、早見は彼の知る世界の話をした。
子どもを産むのは女だけ。結婚も、外国では同性婚が法律で認められているが、日本では残念ながら、いくつかの地域でパートナーシップ制度が実施されている程度である。同性間で子孫を残すというのは、創作の中でしかありえない。
日高の説明に比べると、簡潔だった。それから質疑応答をお互いに繰り返し、早見はひとつの結論を見出した。
「君のいた世界とこの世界は、第二性の有無という点が大きく異なる、パラレルワールドだろう。君は何らかの原因で、こちらの世界にトリップしてきたのだと思う」
言いながら、早見は眼鏡の位置を直した。忙しなく動く指が、冷静ぶって見える彼も、内心で動揺しているのだということを教えてくれる。
パラレルワールドに、トリップ。
日高は舌足らずに繰り返した。
まるで映画や漫画の中の話だ。心当たりを問われても、そんなもの、あるはずない。
「あ」
「どうした?」
「あ、いいえ。なんでもないです」
死を決意して飛び込んだときに、「アルファもオメガもない世界に行きたい」と思ったことは……関係ない、よな?
口にしたところで、早見に「何を馬鹿なことを」と一蹴される可能性が高く、日高は首を横に振った。
「それで、君の今後の身の振り方だが」
そうだ。無理矢理アルファと結婚させられる心配はなくなったが、この世界の住人でない日高が、普通に暮らせるとも思えない。
現金は一円も持ってきていないし、あったところで使えるのか?
すべて父親に取り上げられてしまっていた。保険証も、スマホもない。浦園日高という人間を証明するものは、何もない。
足元からすべてが崩れ落ちていくような恐怖を覚える。
しかし早見は、洗面器の中のタオルを硬く絞りながら、何でもないことのように言った。
「行き場もないだろう。しばらくゆっくりするといい」
目が覚めたのなら、自分でした方がいいだろう。
彼はそう言ってタオルを日高に手渡し、すぐに部屋を出て行った。
冷ややかなのではなく、優しさだ。アルファに狙われ続けた日高は、素肌に触られることに抵抗がある。早見はすでに、日高の心身の状態を、正しく把握している。
しばらく呆然と扉を見つめていた日高だったが、のろのろと動作を開始した。
自分の脳みそのキャパシティはわかっている。考えたって答えは出ないのだ。それならばまず、自分ができることをしよう。
日高はひっかき傷だらけの肌に、タオルを滑らせた。
「そういえば……あの人、俺の名前を呼んでいたよな」
突然アルファにしか見えない男が現れて驚いたため、聞き流してしまったが、はっきりと呼ばれた。
意識が朦朧としている間に、名乗ったのだろうか。
おそらく自分がきれいさっぱり覚えていないだけで、そうなのだろう。
そう推測して、日高は疑問を横にどけて、おとなしく身体を拭き清めるのだった。
>6話
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