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<【15】
夜会の日から五日、ジョシュアは家に帰ってこなかった。
彼が先頭に立って、医師団と連携を取り、腹痛の解明に挑んだ結果、食中毒であることがわかった。夜会の前に、側近中の側近である貴族を集めての晩餐会があり、そこで出た貝料理を食べた人間だけ、症状を訴えたのだ。
ボルカノは冬でも比較的温暖な国で、王都は内陸にある。晩餐に饗された貝は、近海で獲れるものではなく、輸入した珍味であった。
保存状態があまりよくない状態で運ばれてきた貝は、傷んでいた。火の通りも不完全だったため、食中毒が発生した。王侯貴族を狙った無差別殺人事件の類いではないということを、あの場にいた全員に納得させるのは、大変な労力であっただろう。
ようやく帰宅した彼に駆け寄り、労うべきだということはわかっている。だが、レイナールはずっと部屋に引きこもっていた。事件の日以来、まともに食も進まない。マリベルたちが心配して、消化にいいものを持ってきてくれるのだが、三分の一も食べないうちに、胃が拒絶反応を起こす。
「レイ。入ってもいいか?」
そんな状況を、使用人たちから聞いたのだろう。ノックの音はいつも以上に小さく、丁寧な仕草だった。レイナールは細く息をついたあとで、意を決して立ち上がり、扉を開けた。
彼のいない五日で、レイナールも覚悟を決めていた。
必要最低限しか部屋から出てこないと、報告を受けていたのだろう。返事よりも先に中から開いたドアに、ジョシュアは一歩下がった。それからレイナールの顔色を見て、眉根を寄せる。
「こんなに痩せて……ひとりにしてすまなかった」
げっそりと肉の落ちた頬に触れてくる指の熱に、レイナールはなんだか泣きたくなった。首を横に振ると、めまいがして倒れそうになる。
ジョシュアに支えられてベッドに戻ったレイナールは、身を起こしたまま、彼をじっと見つめた。
彼が戻ってきたら、話をしなければならないと考えていた。
もしも、今から話す内容で、自分の扱いが変わったとしても、それは仕方のないことだ。この家に迎え入れられたとき、最初に打ち明けるべきだったのを、自分は放棄したのだから。
ぎゅっと毛布を握ったレイナールを察して、ジョシュアは沈黙を守ってくれていた。
「私は……」
一度言葉を切ったレイナールは、机の上を見た。釣られて、ジョシュアも同じ方を向く。
グェインの屋敷に迎え入れられて、しばらく経つ。もう冬の入り口になるが、レイナールの私物は、一向に増えない。ジョシュアはなんでも欲しいものがあれば言えと寛容だが、レイナールは、庭園に植える新しい苗を少し取り寄せただけで、あとは何も望まなかった。
この家で大切にされればされるほど、自分の運命が呪わしかった。
レイナールの視線の先にあるのは、国から持ち込んだ植木鉢だった。ジョシュアに頼んで取ってもらい、受け取る。
白い雪の中でも映える緑色の葉を指先で弾く。蕾は徐々に膨らんでいる。
レイナールは淡々と、なるべく感情が見えないように告げる。
「私は、この雪割草なんです」
と。
「雪割草?」
何を言い出したのか見当もつかないと眉根を寄せ、首を傾げている。おとぎ話に出てくる精霊の話か? と問うてくる彼は、見た目に寄らず、想像力が豊かだ。レイナールは思わず笑った。
もしも本当に精霊になれたのなら、どれだけよかったか。
人智を超えた存在なら、白金の王族の枷から、すぐにでも逃れられるにちがいない。
「雪割草の花言葉、ご存じですか?」
すぐさま首を横に振るジョシュアに、レイナールはふたつの言葉を教える。
「ひとつは、希望。大昔、色のなかった雪に、白という色を与えた雪割草は、ヴァイスブルムの冬でも耐えられる、強い花なのです。それから……」
「それから?」
まっすぐに、ジョシュアの目を見据える。
願わくは、自分を見る彼の目が、これからも変わらないでいてほしい。なんて、我が儘が過ぎるだろうか。
「……あなたの死を、望む」
正と負は表裏一体とはいうが、花言葉は対極にもほどがあり、負の意味が重すぎる。
「だから、雪割草は誰かに贈ったりしてはいけないんです。呪いになるから。こんなに可憐な花なのに」
ふふ、と微笑み雪割草の鉢を抱き締めるレイナールに、ジョシュアは余計なことは言わず、ただ息をひそめて、言葉の続きを待っている。
「白金の髪と銀星の瞳を持つ王族は、ヴァイスブルムにおいては、希望の象徴です」
美しき賢者。国を創った始祖にあやかり、大地の豊穣を約束する。冬の寒さは和らぎ、人々の笑顔は絶えない。
初代国王と同じ色彩を持つ王子や姫君は、国民に愛されてきた。レイナールが笑って手を振るだけで、彼らは涙を流して喜ぶ。
だが、白金の王族の役割は、民への機嫌取りだけではない。外交にも使われる。
「けれど、一度母国を出て他国へ嫁いだり婿入りしたりすれば、その国には滅びをもたらします」
純粋な武力ではボルカノに敵わない。だからレイナールを派遣した。人質としてではなく、敵国の内側からじわじわと苦しめるための、特殊な兵器として。
ヴァイスブルムの歴史書には、白金の王子や姫を敵国に送り込んだあとのことは、ほとんど記述されない。ある日突然、弱体化してヴァイスブルムが有利になったり、最悪、国が滅んでしまったりする。詳しいことは、送られた側の国の記述を調べればよいのだろうが、さすがにそこまで手を尽くすことはできず、レイナールもよくは知らない。
「夜会での事件、たまたま死者は出ませんでしたし、ジョシュア様たちが収めてくださいました。けれど、もしもボルカノ王や、他の誰かが亡くなっていたら? 食中毒だと信じてくれなかったら?」
人々は疑心暗鬼になり、お互いにお互いを見張り、怪しい行動があれば密告するという、監視社会になるだろう。そしてそれは、貴族だけではなく、庶民にも及んでいく。誰も彼もが、告げ口で点数を稼ごうとし、身内を売る。地獄は革命を引き起こす。
そうなれば、ジョシュアもまた無事では済まないだろう。
「食中毒だって、私がいたから起きたことなのかもしれませんし……」
「そんなはず、あるか!」
あまりの剣幕に驚いたレイナールは、思わず鉢を取り落としそうになって、慌てて抱え直す。怒号を上げたジョシュアは、肩で息をしており、顔は真っ赤だ。怯えたレイナールに気づき、彼は一度下を向く。それからすーっと大きく息を吸って、吐いてを繰り返し、ようやく感情が落ち着いてきたらしい。
ジョシュアはベッドの縁に腰掛けて、レイナールの頬に触れた。
「そんなこと、あるはずがない。すべては迷信、偶然だ」
言い切る彼は、無表情で無口な普段の姿が嘘のように、言葉を思いのままに溢れさせる。
「でも、歴史書が」
「そんなのは、いくらでもこじつけられる」
ジョシュアは書物に書かれた歴史に対して、懐疑的であった。
「そもそも白金の王子というのは、国民から人気が高いんだろう?」
「ええ、まあ……」
行事の度に駆り出され、庶民からの歓声を浴びていたレイナールは、謙遜せずに肯定した。レイナールの出自は隠されておらず、本当の王族でないことは皆知っていても、熱烈に歓迎されていたのだから、正統の王子たちは、なおさらのことだっただろう。
「王太子よりも支持があったとしたら?」
ジョシュアの推測は、こうだった。
白金の王族のうち、外に出したことで「呪い」と言える結末を迎えた者だけを、歴史書に記録する。何事もなければ、そもそも白金であったことを隠し、他国の人間と結婚したことだけを記述する。
白金として産まれてきた人間は、ごまかされた歴史書を見て学び、洗脳される。
『自分はいつか、他国に行く運命なのだ。だから国では、たいしたことができない』
と。
「そんなこと……」
「ありえないと思うか? だが実際に、お前はそういう思考になっている」
指摘され、確かにレイナールはその通りであったと気づく。
神殿でたいした役割を与えられないことや、政治から遠ざけられていることに、無気力にはなれど、不思議に思って抵抗することは、決してなかった。
「白金の王が立ったという記録は、あったか?」
追い打ちをかけられたレイナールは、ゆっくりとかぶりを振った。
いない。ひとりも、いなかった。
白金の王族の後ろには、神殿がいる。政治と宗教は明確に分離されておらず、神殿も利権を得たいと思っていることは、保護されていたレイナールが一番わかっている。
過去には、白金の王子の人気をあてにして、王太子の立場を脅かそうとした人間がいたのかもしれない。歴史書の改ざんは、国が分裂するのを防ぐための、極めて高度な政治的判断だったと推測される。
「レイの場合は二人旅だったようだが、それはお前が養子だからという、極めてまれな事例だ。本来、降嫁となれば、侍女や侍従を大勢連れてくるものだ」
「じゃあ、呪いというのは……?」
ジョシュアは頷いた。
ただその国に住み着いただけで不幸をまき散らすと言われるよりも、多数の工作員の仕業だという方が、よほど納得できる。
「まあ、今回の食中毒は、本当に不幸な事故というか、納品の業者のずさんな管理体制が原因だから、まったくお前とは関係ない」
安堵のあまり、レイナールはめまいを覚えた。ジョシュアが背中を擦り、慰めてくれる。
「よかった……本当に……私が、ジョシュア様を害する存在じゃなくて、本当によかった……」
言葉とともにこぼれていく涙を、ジョシュアの指が拭っていく。
「たとえお前が本当に、ボルカノに不幸をもたらす存在であったとしても、俺はレイを見捨てたりしない。絶対に」
「なぜ……?」
信頼という言葉では語れないほど、自分を守ろうとしてくれるジョシュアに、レイナールは純粋に疑問をぶつけた。不幸の象徴になった自分は、捨てられるのが当たり前だと思っていたから、ジョシュアの強い気持ちに縋ってしまいたくなる。
「レイがこの家に来てから、俺はずっと幸せだからだ。俺だけじゃない。マリベルもアンディも、カールにサム爺、もちろんお祖父様も。皆が、お前を愛している」
張りつく前髪を指でそっと撫でつける。レイナールはじっと見上げ、「ジョシュア様も?」と、尋ねた。
う、と一度詰まったけれど、ジョシュアは頷いた。
「この世界の誰よりも、レイのことを愛しているのは、俺だ。ずっと、ずっと前から、お前のことだけを想っていた」
ずっと、前?
レイナールの頭の上に浮かぶ疑問符をよそに、ジョシュアは、「ああ、言ってしまった」とそっぽを向いて、額を押さえている。目尻はほんのりと赤く、照れている。
その横顔に、記憶がよみがえる。先日見た、懐かしい夢のことを。幼い頃の出会いは、ほんのわずかな間のこと。フラッシュバックする少年の姿が、現在のジョシュアに重なった。
ぼっ、と自分の頬も火がついたように熱い。
「あの、もしかして、迷子になったのを助けてくれた……?」
微かに首を動かして、頷く。
ジョシュアは一度真実を告白したことで、開き直った。
「あのときのレイは、精霊と見間違うほどに、愛らしかった」
なんて、面はゆいことを言って口説いてくる。崇拝の対象ではあったが、さすがにそんな形容を直接ぶつけられたことはない。
当時から、顔が怖いだとか表情が硬いだとか言われ続けた彼は、親元を離れて留学してからも、周りにあまり馴染めなかった。出身も出自も異なる青少年を受け入れているから、学校は実力主義による平等を謳っていたものの、実際に通う学生は違う。
侯爵家の跡取りであるジョシュアは、学内では特別扱いされるのが常だった。まともな友人は、もともと知り合いだったひとりだけ。しかし、同じ学校に通う学生ではなかったから、校内では孤立していた。
「あんな風に笑いかけて、好きだと言ってくれたのは、後にも先にも、お前しかいない」
ずっと忘れられないまま十年以上が経ち、ヴァイスブルムと開戦したときも、ジョシュアは指揮を執りながら、レイナールのことを心配していた。
戦火に巻き込まれてはいないか。健やかに過ごしているだろうか。
侵略側にもかかわらず、万が一見つけたら、国へ連れて帰るつもりでいたというから、驚きだ。
そしてヴァイスブルム王家から人質がやってきたときに、彼は思わず凝視していた。
「まさか、と思った。髪の色が、記憶にあるままだったから。だが……」
そこで少し言い淀んだジョシュアに、レイナールは続きを求める。ちらりと彼が動かした視線の先には、机の上の小さな額縁。リザベラの肖像画だ。
「……白状するとだな」
「はい」
「俺は、あのときの迷子を、少女だと思っていたのだ」
思わず胡乱な目になってしまった。慌てて言い訳を始める彼曰く、本当に愛らしかったから、と。確かにあの頃の自分は、今以上に顔も丸く、目も大きく、性別は不詳だった。
「けれど、男児の服を着ていたと思いますが……」
「女児の方が危険だから、お前の父の配慮だろうと判断した。それに、求婚もされたことだし」
赤面するのは、レイナールの番だった。求婚、そうだ、求婚した。ジョシュアがレイナールの唇を、指先でふにふにと弄る。この口で、結婚してほしいと言った。
「髪はあの子と同じなのに、男。混乱した。名前も『レイ』だったし。ヴァイスブルムには姫君がいるということは知っていたから、きっとあの子はお前の姉妹なのだろうと思っていた」
「でも、違った」
ジョシュアは頷いた。白金の王族が、一代にふたり並び立ったことは、一度もないことになっていた。リザベラの髪は、金は金でも、もっと華やかな色輝きだ。
そうか。だから、初めて彼女の肖像を見たときに、しつこく他に姫がいないかを確認してきたのだ。白金と銀の色を持つのは、当代にはレイナールのみだと知って、ジョシュアは遠い昔に結婚の約束をしたのが、自分だと確信したのだ。
「ジョシュア様……私、私も、あなたのことを、愛しています……!」
初恋の成就に極まるレイナールを、ジョシュアは掻き抱いた。苦しいくらいに抱き締められる。十年以上の空白を埋めるように。
「レイナール」
名を呼ばれて見上げれば、ジョシュアの顔が予想よりも近くにある。だが、逃げようとは思わなかった。受け入れる態勢が整っていることを示すべく、レイナールは目を閉じた。
口づけは、児戯のような触れるだけのもの、何度もついばむだけのものではなく、探り探りで深まっていく。トントンと舌が唇のあわいを突いたときは、一瞬強ばったけれど、肩の力を抜いて、口を開いた。
迎え入れた舌の熱さと柔らかさといったら!
レイナールはこれまでに食べてきたどんな肉よりも甘美なジョシュアの舌を、ちゅるちゅると吸い上げた。
夢中になって味わっているうちに、ジョシュアが寝間着を脱がせようとしていることに気づいたが、抵抗は一切しなかった。
そういえば、ジョシュアは初夜に、異様にこだわっていたのだったか。 今ここでやり直しをするのならば、望むところだ。
ただし、レイナールの覚悟は、自分の身体に裏切られる。
ジョシュアが唇を離し、いよいよ直接肌に触れようというときに、クルル……と、腹の中に飼った獣が鳴いた。安心したら、空腹を思い出したのである。
さすがのジョシュアも毒気を抜かれ、その表情は和らぎ、面白そうに肩を震わせている。先ほどまでとは違う理由で真っ赤になるレイナールの額に、今一度キスをして、ジョシュアは言った。
「続きはまた今度。今日は、一緒に夕食を食べよう」
レイナールは、頷くことしかできなかった。
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