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<【14】
城を見上げるのは、二度目だった。
一度目は、自分の命を守ることだけを考えていた。母国にとっては、レイナールが生きようが、この地で死のうが、どちらでも構わなかった。死ねば開戦、生きて根づけばそれはそれで使い道がある。白金の王子とは、そういうものだからだ。
この世に生まれ落ちたからには、当然、命は惜しい。死すら利用されたくはない。
そのときも緊張していたが、レイナールは、また別の感慨によって、手に汗をかいていた。身体は強ばり、馬車から降りてここまで歩くときには、両足を同時に一歩出そうとしてしまい、危うく転びかけたのを、ジョシュアに支えてもらった。
隣で一緒に城を見上げてくれている彼を、レイナールはそっと窺った。視線に敏感な性質のジョシュアはすぐに気づき、こちらを向く。同時に、レイナールの肩をぐっと抱き寄せて、囁いた。
「大丈夫だ。何があっても、俺がお前を守る」
「はい」
深呼吸をして、腹にぐっと力を入れ、背筋を伸ばす。
自分はこの国の若き将軍、ジョシュア・グェインの正式なパートナーとして、夜会に出席する。今日のために、スラックスもジャケットも新しくあつらえた。
パーティーには礼服で参加する。正装の赤も似合っていたが、白の軍服にも、ジョシュアの黒髪がよく映えた。
レイナールも、彼に合わせて白を身に纏う。首には布をたっぷり使った赤いリボンタイを巻いた。貴族の若者らしい格好だ。
本当は、性別不詳にするために、この国に来たときと同じローブ姿にしようかと提案したのだが、ジョシュアは即座に却下した。
『お前は男だ。女になってほしいなど、一度も望んだことはない』
そう言い切った彼がパートナーでよかったと、レイナールは心底思った。
「いくぞ」
小さく頷いたレイナールを伴い、門扉を守る衛兵に、名前を告げ、招待状を見せる。
王宮を守る任に就く人間は、管轄は軍ではない。それでもグェイン将軍の名前は響き渡っており、衛兵は羨望の視線を彼に向けたかと思うと、今度は隣に立つレイナールを見て、目を丸くする。
「失礼ですが、この方がパートナーで……?」
「そうだ」
それ以外に言葉を発しようとしないジョシュアの無言の圧力に負けて、衛兵は慌てて一礼し、扉を開けた。
夜会の会場となる大広間へ繋がる扉の前でも同じやりとりがあり、ようやく場内の内務大臣が、ジョシュアたちの名前を呼ぶ。
「ジョシュア・グェイン侯爵、ならびに、レイナール・シュニー殿!」
呼び声の大きさ、そして反対に静まりかえった貴族たちを見て、レイナールは少しだけ臆する。ジョシュアはそんな心境もお見通しだとばかりに、じっとレイナールを見つめ、手を差し出した。
「……はい」
レイナールは一言だけ言って、彼の手に自分の手を重ねた。エスコートを受ける淑女の仕草だが、レイナールは男だ。男でしかありえないのだ。
冷たくなった指先を、ジョシュアはぎゅっと握って温めてくれる。気を抜くと、俯いてしまいそうになる自分自身を叱咤して、レイナールは前を向く。
人々は、男ふたりで連れ立ってやってきたレイナールたちに、好奇の目を向けている。「ああ、あれが例の?」扇の陰で、こそこそと話をし始めた気配を感じたレイナールは、あえてそうしたかしましい女性たちの方を見て、にっこりと微笑んだ。
『何かあったら、笑えばよろしいのです。レイナール様は、ジョシュア様の隣に立つのにふさわしい、お美しい方なのですから』
着替えを手伝ってくれたマリベルは、そう言って背中をかなりの強さで叩いた。
美しく、誇り高く。文句を言わせる隙を与えず、レイナールはただ、笑いかける。ついでに手を振ったのは、行事のたびに国民の前に立っていたときの癖が出てしまったせいだ。
静けさが戻ってくる。ひそひそ話が終わったと思ったら、今度は一斉に溜息だ。
レイナールは多少不安になりつつも、表情を変えなかった。ジョシュアが「あまり愛嬌を振りまくな」と忠告してくれて、ようやく、すん、と落ち着きを取り戻した。
変わらず注目は集めているものの、突き刺さる視線の棘はない。好意的とは言えずとも、侮りは激減したように思う。
「あの、レイナール様ですか?」
話しかけてくれたのは、グェインの派閥の家の令嬢であった。レイナールが、返礼の手紙の代筆をした家だ。
頬が紅潮し、組んだ両手の指は、落ち着きなくにぎにぎと動いている。勇気を出して、話しかけてくれたのだろう。レイナールは微笑み、頷いた。
ひとりを皮切りに、他の娘たちも近づいてくる。グェイン家の庇護下にある家の娘たちは、当然軍人の親兄弟を持ち、物怖じしない性格の人間が多い。レイナールは目を白黒させ、彼女たちの言葉を聞き取っては、適度に返事をしていた。
「お前たち。レイナールが困っているだろう。あとでひとりずつにしろ」
ジョシュアがかばってくれたおかげで、ようやく女性陣は黙った。
せっかく話しかけてくれたのだから、もう少しきちんと対応できればよかったのに、と自分自身の手際の悪さを悔いるレイナールを、ジョシュアは「気にするな」と腰を抱き、広間の目立たない場所へ連れていく。
夜会の手順は、国によって大きく変わるということはない。招待客がすべて収容されたところで、主賓(今回の場合は無論、ボルカノ国王だ)が開会の挨拶をし、乾杯をする。歓談の時間を経て、国王の元に、貴族が順番に謁見をする。
国王と会うのは二度目だ。隣には、美しく着飾った若い女。王妃は離縁されてしまったから、一番のお気に入りの愛妾なのだろう。もしもリザベラが、この国に来ることになっていたらと思うと、ぞっとした。
侯爵位だけでなく、将軍職まで授かったジョシュアの挨拶の順番は、早かった。ふたりで一段、二段高い座席に座るボルカノ王家の面々の元へ向かう。
王には息子がいるはずだが、そういえば、一度も姿を見たことがない。まともな感性であれば、この父と同じに扱われるのは心外だろうから、同席したくないのかもしれない。
直接国王に、感謝と賛辞を述べるのは、ジョシュアの役割だ。レイナールは一礼をして、その後国王と直接目が合わないように、視線を足下に落としていた。
「国王陛下に栄光あれ。ボルカノに輝きあれ」
お決まりのせりふで挨拶を締めたジョシュアに合わせて、レイナールは頭を下げた。一、二、三、とゆっくり頭の中で数えて、顔を上げる。
そこで初めて、ボルカノ王と目が合った。少し離れた場所からでも、瞳孔が開いて異様な雰囲気であることがわかる。鼻息荒く、
「それは……ヴァイスブルムの、か?」
と、問いかけてくる。
ジョシュアはレイナールを背に庇い、国王と対峙する。彼もまた、国王がどこかおかしいことには気がついている。じっと主君を睨みつける。
「そうですが、何か? 私が賜ったのです。陛下から」
一歩も引かない。
王の目は、レイナールに釘付けになっている。隣に座る愛妾は、こんなことにもすっかり慣れてしまっているのか、あきれかえった様子で、椅子にもたれかかり、無言を貫いている。
「ならぬ。ならんぞ、ジョシュア・グェイン。それはもともと、私のもとに送られたのだ!」
すっかり興奮した様子で立ち上がったボルカノ王は、そのままレイナールに駆け寄ろうとする。ジョシュアの広い背中によって隠された姿を、彼は血眼で追ってくる。
「これほど美しいのなら、男でもかまわん。なに、グェイン侯爵家よりも、後宮の方がよほどいい暮らしをさせてやる。美味いものも、高価な宝石も、欲しいものはなんでも与えてやる。ん、どうだ?」
本当に好色で愚かな男だ。隣の女も、もはや諦めきっている。視線は冷ややかであった。
夜会用にドレスアップした衣装は、そこそこ厚着である。それなのに、寒気がする。思わず、ジョシュアの腕を掴んだ。縋る相手は、彼しかいなかった。
とはいえ、ジョシュアはこの国の貴族である。国王に絶対の忠誠を誓う男は、たとえレイナールのことを大切に想ってくれてはいても、主君の命令には逆らえない。
「ほら、渡せ。可愛がってやろう」
手招きをするボルカノ王があまりにも気持ちが悪く、ぎゅっと目を閉じる。
こんな男の元で暮らすなんて、とてもじゃないが、耐えられない。
お願いだから、助けてください。
ここまで必死に祈ったことは、神殿での生活でも、一度もなかった。
一瞬の静寂ののち、響いたのは肌を打つ音だった。レイナールは慌てて目を開ける。同時に、高くなった玉座の修羅場を、固唾を飲んで、あるいは醜聞を目の当たりにしている好奇心満々の様子で見守っている観衆が、どよめいた。
広い背中に遮られてよく見えないが、国王は手を押さえ、わなわなと震えている様子だった。背伸びをしても、ジョシュアはレイナールのことを王に見せたくないというように、ぴんと背筋を伸ばして立ちはだかる。
「陛下。初代ボルカノ王は、自身も立派な軍人でございました。主家を騙し、王位を簒奪した裏切り者を打ち倒して、この国を創った。その末である陛下が、部下に対して一度発言したことを謝罪もなく取り消し、奪おうとするのはいかがなものでしょうか」
軍人は、命を賭して戦う。誰よりも国に尽くしてきたジョシュアは、国王に刃向かうことなど、一度もなかったはずだ。レイナールという厄介な存在を受け入れたことからも、彼がいかに王に忠実な男だったかわかる。
その彼が、国王の手を叩き落とした。謀反としてこの場で捕らえられても、おかしくはなく、レイナールは真っ青になる。
だめだ。自分のために、ジョシュアが犠牲になることはあってはならない。
「貴様……不敬であるぞ!」
事ここに至り、ようやく宰相たちが宥めようとするが、聞くような人間ではない。落ち着くどころか、より一層激高して、手のつけようがなくなる。
レイナールに襲いかかろうとするのだが、ぶくぶくと太った王は、動きも鈍い。ジョシュアがすべて受け流してしまい、目的のレイナールには、まったく届かない。
頭に血が上り、自分自身でどうにかしようとしているうちはよいが、少し冷静になり、会場外に控えている近衛兵にジョシュアを制圧する命令をされれば、勝ち目はない。
なのに、レイナールはジョシュアの陰に隠れるばかりで何も出来ないのが歯がゆかった。
ここで何か、別の事件が起きてうやむやになってしまえばいいのに。
窮地を脱するために、自分と関係ない誰かの不幸を願ってしまったその瞬間、望みは現実になる。
「ううっ」
真っ赤な顔をしていた王が、突然苦しみ始めた。青い顔をして倒れ込み、腹を抱えている。
「陛下!?」
それを皮切りに、場内でも何人かが倒れていく。ざっと確認したところ、国王の側近といえる最高位の貴族たちばかりだ。その中には、宰相も含まれている。
「毒……?」
最初にその可能性に思い当たったのは、誰だったのか。
波紋のように広がっていく、「毒」という単語に、貴族たちは混乱する。
「落ち着け! 毒など簡単に仕込めるはずがないだろう!?」
ジョシュアが怒鳴りつけても、阿鼻叫喚の地獄は始まったばかりだ。どこに有害な物質を混入した犯人がいるのかわからない状況で、出入り口に人が殺到する。あちこちで悲鳴と罵声が上がり、怪我人も増えていく。
「レイナール!」
群衆に呼びかけても無駄だと悟ったジョシュアは、すぐにレイナールを守り抜く方針に転換する。彼の腕の中で、レイナールは地獄を呆然と見つめていた。
『務めを果たせよ』
冷酷なヴァイスブルム王の命令が、幾重にも木霊して頭痛がする。
意識して破滅させようとしなくても、不幸は確実に、向こうからやってくる。
震えるレイナールを、ジョシュアはただ抱き締め、嵐が過ぎ去るまでずっと、そうしていた。
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