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<【5】
「お祖父様!」
夜になり、ジョシュアが帰宅した。
夕食の時間には間に合わなかったが、食後の茶を楽しんでいるところに、食堂に乗り込んできた彼は、開口一番、大きな声を上げた。
高貴な人間は大声を張り上げたりしない。神殿ではなおさらだ。頑丈な壁がビリビリと震えるほどの轟音に、レイナールは驚いて、持っていたカップを落としてしまった。
「あっ、つ……」
その拍子に、着ていたシャツにまだ熱い茶が零れてしまう。小さく悲鳴を上げたレイナールに、ジョシュアはハッとした。
「す、すまない」
軍隊で怪我人が出るのは慣れているはずなのに、彼はレイナールの火傷をどうするべきかわからず、おろおろと謝るばかりである。大丈夫だと強がってみせるが、「ジョシュア」と、おどろおどろしい低い声に、なぜか名前を呼ばれていないレイナールまでも、ドキッとする。
「お前が驚かせるのが悪い。きちんと手当てをしてやりなさい」
「……はい」
年若き将軍も、祖父には勝てない。にわかに緊張した面持ちで、彼はレイナールの元に近づき、そして。
「えっ」
昼間、同じ光景を見たばかりだった。
でもそれは、自分がヒロインの立場ではなく、観客として、アルバートがサムを家に運び込むのを見ていただけ。実地で抱き上げられるとは思っていなかった。
「お、下ろしてください」
茶が零れたのは胸から腹にかけてで、足腰は関係ない。自分の足で立って歩けるという主張は、一切聞き入れられず、レイナールはジョシュアの書斎へと連れ込まれてしまう。
初めて入る部屋だったが、どこか懐かしい気がするのは、養子に入る前、仕事をする父と離れがたく、隅で邪魔にならないように静かに一人遊んでいた書斎と似ているからだ。
ジョシュアは注意深く、レイナールの身体を長椅子に下ろした。来客のときに使う、柔らかい椅子に横たえられる。身体を起こそうとすると、力強く押しとどめられてしまった。
「動くな」
低い声は、獣の唸り声によく似ていた。すっかり身体を硬くしてしまったレイナールのシャツのボタンを、ジョシュアはゆっくりと外していく。
その手つきは優しく、野生の獰猛さのかけらもない。レイナールは少しずつ息を吐き、身体の力を抜いた。
将軍職に就いてからも、ジョシュアは机に向かうだけではなく、しっかりと実戦向けに鍛え上げている。そんな逞しい身体の彼の眼前に、薄っぺらで細いだけの自分の肉体をさらすのは、恥ずかしいことだった。
ジョシュアは胸や腹の辺りから視線を動かさない。火傷の具合を確かめて、医師を呼ぶべきか考えている。
たいしたことありません、と言いかけたところで、彼が赤くなった皮膚に触れた。ピリッとした痛みが走り、レイナールの口からは、言葉ではなく、「あっ」という、小さな声が飛び出してしまう。
「痛むか?」
「少しだけ、です」
ジョシュアは机の引き出しから、救急箱を取り出した。てっきり、マリベルを呼びつけるものとばかり思っていた。
「軍人は怪我が多い。だから、あまり家人の手を煩わせたくない」
言って、レイナールの患部に薬を塗り込んでいく。力加減に苦難しているのか、ジョシュアの目は真剣だ。自分なら、適当にちょいちょいと塗って終わらせるところ、丹念に扱われ、レイナールは困惑する。
そう、困惑だ。心臓の音が少しだけ早く、大きくなったように感じるのは、どう反応すべきかわからないせいだ。
最後に薬が服につかないように、包帯を巻かれた。火傷はほんの少し赤くなっただけなのに、重症扱い患者をされ、レイナールは笑ってしまった。声を出さなかったのに、空気の震えが伝わったのか、ジョシュアは「どうした?」と、救急箱をしまいながら、尋ねてくる。
ここでだんまりになってはいけないと、レイナールは勇気を奮い立たせた。
ジョシュアが帰宅する前、アルバートと庭仕事を通じて、打ち解けていた。頑固者の庭師も、レイナールには任せられない作業も、勝手知ったる前侯爵には一任した。
アルバートは、自分が作った庭を褒めちぎるレイナールのことをいたく気に入った。
レイナールが、人質としてこの国にやってきたことや、国王によって下げ渡されたという面倒な立場について、アルバートは百も承知だった。「ご迷惑をおかけしています」と頭を下げると、彼は眉を跳ね上げた。
『あいつが迷惑だと?』
途端に背後に燃えさかる怒りの片鱗を見て、レイナールは慌てて、「そうは仰いませんが……面倒を抱え込ませて、申し訳なく思っています」と、自分の推測に過ぎないと言い訳をした。
幾分か表情を和らげた彼は、レイナールをこう諭した。
『奴は誰に似たのか、口下手な上に顔にも感情が出にくい性質でな……きちんと話をしてやってくれんか』
草木の世話や、最新の農業に関する論文の見解について話をするうちに、すっかり自分の祖父のような気持ちになっていたレイナールは、彼の頼みに殊勝に頷いたのだった。
「あの、ジョシュア様」
引き結んだ唇を、レイナールは開く。心臓が飛び出しそうなほど、緊張した。ふたりきりの部屋で、こんなに長く一緒にいるのも初めてだった。明日の朝にはまた、早くから出て行ってしまうだろうから、機会は今しかない。
「ジョシュア様は、私を引き受けたことを、後悔していらっしゃいませんか?」
目を剥いたジョシュアは、レイナールの手首を掴んだ。力加減まで頭が回らず、がっちりと握られてしまう。痛みはないが、とにかく驚いて身が竦む。
「後悔など、一切ない!」
力強く、けれど言葉数は少なく主張する彼に、嘘はないだろう。王の命令に背くなど、もともと考えられない人物だが、それだけが理由ではないと信るに足る、誠実さが目に宿っている。
けれど、どう考えても自分はお荷物なのだ。レイナールはわかっている。
男の嫁が屋敷で堂々としているのは、グェイン家の行く末を考えてもよくない。それに、レイナールは厄介な事情を抱えている。ジョシュアやアルバート、それからマリベルたちに迷惑をかけたくない。
ジョシュアは、自分の気持ちをどう説明すればいいのか、わからない様子だった。右手はレイナールの手首を捕らえたまま、逆の手で短い黒の髪を、ガシガシと掻き回す。真剣に悩んでいる様子だ。
いつもと同じ無表情の怖い顔のはずなのに、彼が焦っていることは、十分に伝わってきた。
レイナールからフォローの一言を告げるべきか迷っていると、豪快なノック音とともに、ジョシュアの名前を呼ぶ声がした。アルバートである。
「おい、ジョシュア。レイに何かあったんじゃなかろうな?」
弾かれたように手首を離した彼は、ドアの向こうの祖父と、目の前のレイナールを交互に見る。
「レイ?」
「ああ、はい。お祖父様に、そう呼びたいと仰っていただけたので……」
「お祖父様!?」
これまでの無骨な印象とは正反対の素っ頓狂な声を上げ、ジョシュアは書斎を出て、祖父と何やら口論をしながら離れていった。
よくわからないまま取り残されたレイナールは、胸をはだけられたままだということにはたと気づき、決まり悪く、急いでボタンをしめてから、彼らの後を追うのだった。
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