緊張してるのか?
父に問われた圭一郎は、少しだけ考えてから、首を横に振った。もしも自分の表情が硬くなっているとすれば、お仕着せのブレザーが窮屈なだけである。精神的な問題ではなく、物理的な事情に他ならない。
土曜日の夜は、いつもはワクワクする時間だった。明日は何をする? 父と相談しながら夕飯を食べる。特に用事が思い浮かばなくても、家で二人でのんびりするだけで楽しい。平日は、なかなか父とゆっくり過ごす時間はない。
しかしここは、リラックスできる自宅ではない。ホテルのレストランといえば、この間見たドラマで、主人公が恋人にプロポーズしようと予約していた場所だ。つまりは大人の空間である。
大きな窓から港の夜景が見えたのは、入店した一瞬のこと。すぐに個室に通されてしまったものだから、圭一郎の気を紛らわせるものは一切ない。退屈している顔を見て、父は緊張していると勘違いしたのだろう。
「緊張してんのは、父ちゃんの方だろ。なんだよ、その顔」
多少の反抗期もあり、圭一郎は生意気な口をきいた。
小学校一年のときに、両親は離婚した。今も昔も子供である圭一郎には、男女のアレコレなんてわからない。
ただ、涙ひとつ見せず、振り返らずに家を出ていった母親と、いつまでも彼女の背を見送っていた父親の姿を比べれば、どちらが悪かったのかも、どちらの愛情が深かったのかも、一目瞭然だった。
祖母や伯母の愚痴を総合した結果、六年生になった今では、離婚の原因が母親の浮気であったことも、理解している。
頼れる父は、圭一郎の言葉に、ますます眉根を下げた。母と別れたときですら、見たことがない顔だ。
大人になったら、誰でも無条件で強くなるのだと思っていた。父ちゃんみたいな男になるぞ、と密かに誓っていた圭一郎の中で、理想像は音を立てて崩れ去っていく。
父親の威厳が木っ端微塵になったのを知らず、父はそわそわと落ち着かない様子で、人を待っている。圭一郎が初めて会うその人は、父の恋人だ。
もう二年付き合っている。結婚するつもりだ。
先日、打ち明けられたが、今更の報告であった。父の行動パターンが変わったことに、圭一郎は気づいていた。「おめでとう」とようやく口にできる。そのときは純粋に祝福したが、時間が経つにつれて、圭一郎の頭に不安がよぎるようになった。
その人は、自分を生んだ母親のように、父を裏切ったりしないだろうか。父は優しく、お人よしの一面がある。つけこまれているだけなのでは?
不安は使命感へと変わり、圭一郎は今日、再婚相手を見極めるつもりでいた。子供にわかるはずがないと思って、油断する場面が出てくるに違いない。それこそ祖母や伯母が、父の元妻の悪口を、息子である圭一郎に延々と浴びせていたように。
子供は人形じゃない。難しい言葉はわからずとも、そこに籠められた悪意は読み取ることができる。父一人子一人の暮らしは、圭一郎を人並み以上に思慮深い少年にしているというのに、彼女たちはいつまでも、無知な子供扱いをする。
じっとテーブルの上の食器を眺めること五分、ようやくやってきたのは、線が細くきれいな女性だった。立ち上がって出迎えた父につられて、圭一郎も席を立った。
「はじめまして」
思わず見惚れてしまうが、ハッとして、自分の頬を叩く。ダメだダメだ。こんなんじゃすぐに騙されるぞ。
じいっと凝視する圭一郎のことを、父はどう解釈したのか、「どうだ、素敵な人だろう!」と自慢してきた。そうだね、素敵だね。棒読みで応える間も、視線はこれから母になるかもしれない人に合わせたままだ。
優しそうに見える。けれど、本性はわからない。実の母だって、そこそこ美人だった。残念ながら、圭一郎は父に似たので、その美貌は受け継がなかった。
圭一郎の「父ちゃんは面食いだな」という、不躾な視線を彼女は真正面から受け止めて、その上で微笑んだ。しっかりと合わせられた目の中には、どこにも圭一郎を侮る色はない。
「圭一郎くん。私まだ、あなたのお父さんのプロポーズにお返事してないの」
「え?」
父を見上げると、やっぱり情けない顔のまま、頷いた。てっきり今日の会食は、「新しいお母さんだよ」という紹介のためだと思っていた。
「圭一郎くんがいいよって言ってくれるまで、結婚しません」
父の幸せは自分の肩にかかっている。
圭一郎は所詮、小学六年生である。重圧によって、「俺が父ちゃんを守るんだ!」という気概はしゅるしゅると萎み、消滅してしまった。
「それに、うちの子とも先に会ってもらいたかったし」
「うちの子?」
言われて初めて、彼女の背後に誰かが隠れていることに気がついた。同級生の中でも小柄な圭一郎より、さらに小さい影。
母親に背中を押されて、おずおずと姿を現した子供に、圭一郎は目を瞠り、「いいよ! 結婚して!」と、即座に言い放った。
警戒心の塊だった圭一郎の変わり身の早さに、大人二人は驚いて声も出ない。
ああ、俺は顔だけじゃなくて、中身も父ちゃんに似たんだな。
圭一郎は目の前に現れた美少年に、言葉をかけた。
「初めまして! 俺が君のお兄ちゃんだよ!」
と。
コメント