二週間の恋人(6)

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5話

 おずおずと扉が開いた。せんせい、と泣きそうな声をあげて立っていたのは、中学一年の生徒だった。要は腰を上げて、少年に近づく。

「どうした? 昨日の授業でわからないところでも、あったのか?」

 抑揚があまりない声は、教室全体に響かせるときは威厳があって授業も引き締まるが、一対一だと、どうしても冷たく聞こえてしまう。自覚しているので、要はできるだけゆっくりと話し、生徒を怖がらせないように配慮した。

 周囲の生徒よりも背が低い少年は、制服でなければ小学生でも通るだろう。中間テストの成績は悪くなく、上位クラスの一番前の席を割り当てられている。

 少年は、要を見上げた。そして、震える声で切り出した。

「数学が、全然わからないんです……」

 要は首を傾げた。上位クラスで真面目に授業に参加しているし、宿題もしっかりこなしてくる。指摘すると、「宿題はお兄ちゃんが、手伝ってくれるんです。ごめんなさい」と、正直に謝った。

 要は大量に宿題を出しているわけではない。その日の授業の重要問題を復習できるように、問題集を平均二ページ分、解いてくるように伝えるだけだ。それほどの量ではないが、少年には重荷なのだと言う。

 中間テストまでは、小学生のときの知識でなんとか太刀打ちできたものの、上位クラスに組み込まれたせいで、授業構成は、基本問題はさらっと終わらせ、あとは応用問題をメインに扱うため、知識が定着せずに、苦戦しているようだ。

「先生、数学なんて勉強して、なんか意味あるんですか?」

 数学は、他の科目に比較しても、学ぶ意義を見出しづらい学問だ。担任や親に質問をぶつけても、明確な答えは返ってこないだろう。

 要は数学のプロだ。しっかりとした答えを与えてやらなければならない。少年を座らせて、じっくり話をしようと思ったとき、「なぁ、君。将来なりたいものってある?」と、背後から要を飛び越えて、少年に問いが投げかけられた。

 要は驚いて振り向いたが、俊平が真面目な顔をしていたので、任せてみようと判断した。不足した分は、自分がフォローすればいい。やってみろ、と要が微かに頷いたのを確認して、俊平は生徒へと近づいていった。

 興味深いのは、自分より三十センチ以上長身の大人の男が近づいてきても、小さな少年が動じなかった点だ。誰にも警戒されない俊平の空気感は、武器になる。

「将来のこと、考えてる? 大学で何やりたい、とか」

 少年は少し考えた末に、「心理学、とか?」と、小さな声で言った。

「心理カウンセラーとかになりたい?」

「はい。興味あります」

 そっか、と俊平は笑った。

「じゃあ、数学もやらないとな!」

 そう言い切った俊平に、生徒は目を白黒させている。無理もない。中学一年生では、心理学がどういう学問なのかもよくわかっていないのだ。

「心理学には、統計っていう数学の知識が必要なんだ。アンケート取って集計して、それをグラフにするだろ。文系の学問に分類されてるけど、ぶっちゃけ理系に近いんだよね。脳や神経についても触れるから。俺も一年の時に講義を取ったけど、生物みたいなもんだよね」

 心の中で頷きながら、俊平の話を聞いていた要であったが、次のセリフで目を瞠った。

「それに、未来はどれだけえらい数学者が計算しても、百パーセントって言い切れないものなんだ。もしかしたら今後、理系に進もうと決意する出来事があるかもしれないし、ないかもしれない。でも、そのときになってから、数学をやり直すのは大変だと思わないかい?」

『未来は計算しつくすことができない。君が今、数学をやりたくないと言っても、将来やりたいことができたときに、数学は必要になってくるかもしれない』

 俊平の問いかけに、生徒は頷いた。これから授業内容がどんどん難しくなるだろうことを、彼は理解している。

「焦って決めなくてもいいよ。それに、瀬川先生なら、ちゃんと手助けしてくれるよ。ね、先生?」

 話を向けられて、はっとした。少年は大きな目で要を見つめる。不安そうな表情の彼に、要は言った。

「ああ。そうだな。上位クラスがきついなら、基本クラスに移っても構わない。課題も、問題集の新しい問題ではなくて、授業で取り扱った問題を、その日のうちにもう一度解くだけでも、効果はある。それならできそうか?」

 こくこくと頷く少年の頬には、赤みが戻っている。来たときよりも元気な声で、彼は「ありがとうございました!」と要と俊平に礼を言って、出て行った。

 素直ないい子ですね、と微笑んでいる俊平を、要は思い切り睨みつけた。

「……お前、俺の生徒だな?」

 確信はあった。俊平が生徒に言った言葉は、要の答えと変わらなかったのだ。しかし、いつどのように関わった相手なのかわからず、語尾が不自然に上がった。

 俊平は静かに微笑んだ。そういう表情をすると、実年齢よりもずっと大人びて見えるから、不思議だ。

「ちゃんとは思い出してくれてないんですね、瀬川せーんせ」

 良識のある大学生としてではなく、俊平はからかうように、要を呼んだ。甘えた声で要を「せんせ」と呼んだ人間は、そう多くはない。生徒とは、一線を引いた関係しか築かないし、築けない。

7話

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