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<20話
電車一本、駅から十五分あまりで、九鬼の勤め先に到着する。
出版社と聞いてイメージする高いビルとは大きく異なっていた。それでも、昔勤めていたアプリ開発会社は適当な雑居ビルの一室だったので、小さいとはいえ、自社ビルを構えているのだから、立派なものである。
しばらくの間、千隼は中に出入りする人たちを観察した。受付に名前を名乗らないと入れなかったり、アポイントがないと中に入れなかったりするのかと不安になったからだ。
せっかく忘れ物を口実に、偵察の機会を手に入れたのだ。受付で「こちらで渡しておきます」などと言われたら、ここまで来た意味がない。
幸い、受付はそもそも存在しなかった。
出入りするのは私服の人ばかりで、おそらくあれが、漫画家や小説家なのだろう。
比較的かっちりした服装は、編集者だろう。よれたTシャツ姿の男と連れ立って外に出かける様子は、アンバランスに見えるのに、なぜかしっくりくる組み合わせだった。
九鬼も、乳山先生と並んだら、どこかピンと来るような二人組に見えるのかな。
知らぬ漫画家のことを思い浮かべ、なんだかほっこりした。
千隼は、自分の知らない世界を垣間見るのに夢中になり、本来の目的を忘れかけた。
そろそろ行くか。
ひょろりとした青年が、おどおどと自動ドアをくぐるのに合わせ、千隼も建物に入った。
エレベーター前にあるフロア案内を見ながら、九鬼の在籍している編集部が何階か確かめようとした、まさにそのときであった。
到着したエレベーターの扉が、電子音とともに開く。中から出てくる人を先に通すのに、端によけた千隼は、固まった。
「九鬼……っ」
彼ひとりだったのなら、驚きはしても、「偶然! ラッキー!」で済む話だ。
だが、エレベーターから降りてきたのは、彼ひとりではなかった。
「姫野? どうしてここに」
ふんわりした素材のスカートを翻し、笑顔を浮かべて九鬼を見上げていたのは、まさしく、千隼の探していた女だった。
瞬間、カッと頭に血が上る。
ここに彼女がいるということは、やはり千隼の読み通り、職場の人間だったということだ。九鬼は、彼女の存在を隠していた。肝っ玉母さんでも、背の高いスポーティー美女でもない。やましいことがあるのは、一目瞭然だった。
セックスフレンドの千隼に、本命の恋人の存在を知られないように画策するなんて、九鬼のくせに、やるじゃないか。
千隼は、学生時代に培った技術を総動員する。姫に求められる可愛らしい笑顔に力を籠めて、ずい、と、二人に接近した。
背が高くない千隼でも、女を見下ろすことは簡単だった。それくらい、彼女は低身長だ。
背丈に見合った可愛らしい童顔で、千隼を不思議そうに見上げている。見知らぬ男に見下ろされているというのに、「初めまして?」と、暢気なものである。
「姫野」
九鬼が名前を呼ぶ声には、叱責の色が混じっている。ああ、やっぱりこの男は、自分じゃなくて、目の前の女を選んでいる。
あんなに誘ってきたくせに、所詮遊び。自分の恋は、ノンケ男を相手にする限り、報われない。
そう思った瞬間、キレていた。
>22話
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