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<<4話のはじめから
<【34】
糸屋からの帰り道に、たまたま肉のフジワラの前を通りかかると、大輔がひらひらと手を振ってきた。傍らには渚の姿もある。糸を買って帰った彼女のことを思い出して、僕は会釈をして通り過ぎようとした。
「おいおい、無視すんなよ」
渚の気持ちなんてつゆほども気づかない大輔は、僕の素通りをよしとしなかった。仕方がないので近づいて、渚にも「どうも」と挨拶をする。
糸を買ったことを知る唯一の人間である僕に、彼女は一瞬、恨みがましい視線を向ける。
けれど渚は、僕がここにいることを拒絶したりすることはない。
好きな相手に夢中になって、他の人を蹴落としたりするのは、回り回って自分自身を追い詰めることになる。篤久のように。
だからきっと、僕を脅しつけた青山と渡瀬にも、何らかのしっぺ返しが来るはずなんだ。そう考えでもしないと、僕の今日の鬱憤は晴れない。
「でさ、お前も来る?」
何度思い出しても苛立ってしまう出来事を反芻していたら、大輔の話を一切聞いていなかった。
「ごめん。何?」
聞き返せば、「うおい!」と、喚く大輔だが、別に怒っているわけじゃない。本当に心の広い男である。渚が惚れるのも、無理はない。
大輔と渚は、次の休みの日に海へ行く予定を立てていた。お盆が過ぎてクラゲだらけになる前に、夏を堪能するつもりでいるらしい。
そこに混じる僕を想像しただけで、場違いだった。大輔みたいに逞しい肉体、健康的な肌の持ち主ではない。生っ白くて貧相な身体をさらす趣味はない。だいたい僕は、プールならまだしも、波のある場所で泳ぐ自信がない。
それに、渚の邪魔をしちゃ悪いし。
ちらりと伺う渚は、複雑そうな顔をしていた。ふたりきりの海デートを楽しみたい気持ちもあるが、僕を仲間はずれにするのも悪い、といった顔だ。
いやいや、僕なんかに気を遣わなくていい。大輔の目的は、僕を誘うことじゃない。
「ついでに、糸子さんも一緒に……」
「絶対来ない」
渚の顔が鬼と化す前に、僕はでへへ、とにや下がった大輔の言葉を遮った。糸子の水着姿でも妄想しているんだろうけれど、店主は僕に輪をかけてインドア派だ。海なんてもってのほか、誰が誘ったって来やしない。
「それに、僕も海はあんまり」
「じゃあ山か?」
海と山の二択しかないあたり、アウトドア思考が過ぎる。僕はうんざりした顔で、「どちらも嫌」と首を横に振った。
「僕はいいから、ふたりで行ってきたら? 僕、泳げないしさ。迷惑かけたくない」
なおも言いつのろうとする大輔を黙殺して、僕は渚をじっと見つめた。
ここで決めるべきだと思う。
その念が通じたのか、赤い糸に勇気をもらった渚は、大輔に「じゃあ来週、車よろしくね!」と、有無を言わさぬ口調で宣言する。大輔はきょとんとしたあとで、
「おう。しょうがねぇから、お前とふたりで行ってやるわ」
と、渚の機嫌を逆撫でしそうな憎まれ口を叩いた。
てっきり渚は、「しょうがねぇってなにさ!」と、キャンキャンと吠え立てると思ったが、大輔とふたりきりで海に行くという予定が嬉しかったのだろう。鼻歌混じりに「じゃあね」と僕に対しても手を振って、その場を立ち去った。
「なんだぁ、あいつ。そんなに海に行きたかったのかよ」
「そうかもね」
適当に相づちを打つと、大輔はやらしい顔をした。
「水着、どんなの着てくるんだろうなあ」
「……」
おまわりさん、この人です。
妄想をしているのがありありとわかる顔を、ぜひともしょっぴいていただきたい。
糸子はスレンダーで、凹凸の少ない体つきだが、渚は対照的に健康的なムチムチ体型である。そりゃ、水着姿に期待できるのは後者ってわけだろうけれど、それって虫がよすぎるのでは?
じとっと見ていた僕だったが、デート自体を彼が楽しみにしているのは、渚にとってはよい傾向だと思い直して、僕は肉屋をあとにした。
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