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<15話
さすがに夜中に大立ち回り(とはいえ、司自身は何もしていない)があったうえに、授業も花房の欠勤の穴埋めをしなければならず、疲れた。
「今日は、早く帰ろ……」
アルバイト講師も全員帰したところで、最低限の仕事をして、司は帰り支度を始めた。
花房は家に帰ったかな、とスマホを確認すると、メッセージが届いていた。退院報告だろうと開いて、司は目を見開く。
『退院しました。何時でも構わないので、家まで来てもらっていいですか?』
暴力事件の被害者で病院送りになったのだから、実家の両親も心配しているだろう。もしかしたら、伯父である社長のところまで、トラブルの情報は上がっているかもしれない。
司は、「実家じゃなくて?」と送った。すぐに既読になったかと思ったら、電話がかかってくる。
『蓬田先生、お時間は平気ですか?』
「お、おう」
突然だったので声が多少上擦った。花房の怪我の状態を聞き、脳に異常がなかったことに、ホッとした。
『うち、放任主義だって言ったでしょう。命に関わらなきゃ、うちの親は来ません』
「そ、そんなもんか?」
『そうです。もうマンションに帰っているので、ぜひ来てほしいんです。泊まっていただいてかまいませんので』
しつこくねだられた司は、少し考えて了承した。コンビニであれこれを購入したが、酒はやめておいた。
前回はタクシーで向かったが、道を覚えるのは得意な方だ。駅まで帰った記憶を辿り、生温く湿気を含む風を受けながら徒歩で向かう。そろそろ梅雨も明け、本格的な夏がやってくる。忙しい季節だが、あっという間の夏期講習期間だ。ソワソワとワクワクが同居する、そんな時期である。
今年は花房と一緒に駆け抜けることができるのかと思うと、足取りは軽かった。
マンションに着き、エレベーターで十階へ。部屋番号は忘れてしまったので、電話で到着の旨を告げると、三つめの部屋の扉がすぐに開いた。
打撲痕が生々しい。司は努めて明るくふるまい、部屋に上がって飲み物や食べ物をテーブルに置く。
「好きなの飲んでくれよ」
ネクタイを緩め、ソファに腰を下ろす。司は緑茶のペットボトルを取って飲むと、喉が渇いていたことに気がついた。
緊張、してるのか?
二度目の来訪だし、自分たちの関係は上司と部下、あるいは友人関係でしかないのに。
言い訳とごまかしでしかないと、すでに理解していた。いつからかはわからないけれど、はっきりと自分の気持ちを自覚したのは、昨日の暴力事件だ。頬を腫らした花房を見て、心臓が止まるかと思った。
思い返せば、流暢な英語を生徒の前で披露したときも、路上で歌っているときも、いつだって自分は、花房に見惚れていたのだ。
顔よりも声よりも、何よりも堂々と立っている彼の姿が眩しくて、ああなりたいと憧れた。
そして今や、憧れだけじゃなくて。
花房はビニール袋の中からスポーツドリンクを選ぶと、一気に三分の一ほど飲み干した。ぷは、と音を立てて口を離して拭うと、「蓬田先生」と呼ぶ。その目が据わっていて、司はなんとなく座り直し、膝に手を置いた。彼は向かいに正座をする。
なんだ、改まって。
「まずひとつ、謝りたいことがあります」
「はい?」
謝罪を受けるようなことをされた覚えはまるでなかった。むしろ、着任してから一ヶ月あまりで倒れたり怪我をしたり、こちらが監督不行き届きで謝るべきことの方が多い気がする。
「俺、ずっとあなたに裏切られたと思ってました」
「あー……」
前髪がウザいくらい長くて、やる気が微塵もなかった頃。もうすでに、遠い過去のものとして、記憶の彼方に追いやられているのに、「裏切り」発言は喉に刺さった小骨のように引っかかっていた。
だが、もとはといえば自分の方から恨み節をぶつけていた。彼が気に病む必要はない。
顔の前で手を振るジェスチャーをしかけた司だったが、その手をぎゅっと、身体を乗り出してきた花房が、両手で握りしめた。ギターを爪弾いていた彼の、ゴツゴツした男らしい大きな手のひらを直で感じて、顔が熱くなる。
「俺、てっきりあなたが音楽にめちゃくちゃ詳しい人だと思って」
裏切り発言の真相は、こうだった。
菊池に話していたように、自分の道に迷った花房は、一番の常連として認識していた司に質問をした。司が一番好きだと言ったのは、花房が作詞作曲したものではなく、プロのシンガーソングライターの大ヒット曲だった。
まさか、司が知らないとは予想していなかった。
歌声はいいかもしれないが、作る曲は面白みのない、印象に残らない曲だと言われたに等しい。
そう解釈した花房は、すべてを諦めた。
そんな相手と就職先で再会したら、態度が悪くなるのも仕方ないか。
「だから、裏切られたと思ったのは、俺の一方的な思い込みで。本当に、すみませんでした」
頭を下げ続ける花房に、司は心底慌てる。
こっちだって勝手な印象を抱いて彼のことを決めつけて、全然違ったことに、幻滅したのだ。人というのは、まことに自分勝手である。
「俺も悪かったから!」
お互いに謝り合ってひととおり満足したところで、不意に花房が真顔になった。
また別に、聞きたいことがあるという。
「この間泊まりにきたとき……なんですけど」
「うん?」
様子がおかしい。頬の赤さは、怪我の後遺症ではないだろう。じゅわりと内側から浮かび上がってきたのは羞じらいの色で、顔に似合わず可愛らしいピンク。
「俺の寝顔見て、好みだって言ったの、あれ、どういう意味ですか?」
にやにやと彼の言葉を待っていた司の頬が引きつった。うっかり、「き、聞こえてたのか……?」と言ってしまい、発言をしたと認めてしまう。ごまかせばよかった。
花房の瞳がきらりと輝いている。てっきり気持ち悪いと蔑まれるとばかり思っていた司は、おや、と思った。嫌悪の色はない。それどころか……。
「俺の解釈で、合ってますか?」
そんなこと言われても、困る。第一、お前の解釈なんてこちらは知らない。
司は「うー」と低く呻いたあとで、パッと顔を上げた。睨みつけているつもりだが、花房の表情からして、たぶん熱視線を受け止めているつもりになっている。
認める。認める以外に、道はない。もしも花房が、気持ちを伝えたときに嘲笑うような男だとしたら、それはもう、自分の男を見る目がなかったと諦めるしかない。
司は意を決して声を上げかけたが、花房によって遮られた。
「待って。やっぱり、俺から言わせてほしいです」
勢い込んだ司が内心でずっこけると、彼は移動して、隣に座ってきた。そして脱力しきった司の手を再び取る。
「俺は、蓬田先生が好きです。ストリートライブで、俺の歌を誰よりも真剣に聴いてくれた。塾講師になってからも、ずっと俺のこと見守ってくれる、優しくて厳しいあなたのことを、好きになりました」
至近距離で見つめられ、司の頬もぽぽぽん、と染まったのを自覚する。
告白シーンとしてはオーソドックスで、ロマンティックかどうかはわからないけれど、いい雰囲気だとは思う。一人暮らしの相手の部屋でもあるし。
しかし司はなかなか信じられず、返事は即答できずに、
「マジで……?」
という、間抜けな独り言が飛び出した。
花房は呆れもせずに、「大マジです」と、真剣な顔で見つめてくる。
「お、俺も……最初から好みだって思ったっ!」
これでは言葉が足りなくて、誠実に向かってくる花房に対して失礼だ。
「す、好きだ!」
まっすぐに彼を見つめ、短く返事をすると、花房が覆い被さってくる。
大男に体重をかけられて、細身で小柄な司は、ひとたまりもなくソファに押し倒されてしまう。
「ちょ、んむ!」
がっついてくるキスは、同い年なのに性急で、まるで年下の男を相手しているようだった。薄い唇と対照的な厚めの舌にノックされると、心以上に素直な身体は、好きな男を内側へと迎え入れてしまう。
吸われ、甘く噛まれる。柔らかな舌肉は、身体の中のどこよりも、愛情に敏感だ。何しろ口説き文句を囁くのも、ラブソングを歌うのも、舌なのだから。
ああ、そういえば。
なんであの日、最初の曲が好きだと言ったのか、思い出した。
あの曲だけ、ストレートに思いを告げる、恋の歌だったからだ――……。
>17話
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