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<9話
「それじゃあ、好きな本を選んでください」
革の衣装でも渡されるのか。はたまた鞭を振るうように指示されるのか。戦々恐々としていた雪彦に、幹也は拍子抜けなことを言った。
訳がわからないながら、こちらも初心者であるので、とりあえず従った。本の角で殴れ、とでも言われるのだろうか。それは嫌だな、と思いつつ、ソフトカバーの薄めの本を手にした。
「じゃあ、椅子に座って」
書斎には椅子は一つしかない。雪彦は椅子を引いた。一見すると、普通のオフィスチェアだが、座ってみると、家にある椅子とはまるで違う。長時間座っても身体が楽なように作られている。おそらく、ものすごく高いのだろう。
などと考えながら、本を開きかけて、「そっちじゃないです」と言われる。いい笑顔の幹也と顔を見合わせる。
「そっちじゃないって言われても……」
他に椅子はない。なぞなぞか?
部屋を見渡すが、椅子になりそうなものはない。再び幹也と目が合った。貼りついたような笑顔に、背中がうすら寒くなる。
「ここに『いる』でしょう?」
そう言うと、彼は床に四つん這いになった。背中をできる限り平らにして、「ほら」と雪彦を促す。呆気に取られていたら、不満そうに「早く座ってください」と言われた。
いや、お前が奴隷で俺がご主人様じゃないのか。どうしてそんなにえらそうなのか。そもそもこれって、SМなのか。
様々な思いが胸に去来するが、ひとまず雪彦は、指示通りに幹也の背に座った。彼ほどではないが、雪彦も長身の男である。潰れたりしないことを祈り、ぐっと体重をかけた。
「ん……」
椅子になった幹也は、鼻から抜ける甘い声を出した。
嘘だろう。こんなことで興奮できるってのかよ。
Mの性癖は、イメージした以上に奥深い。半ば感心していると、幹也はさらに要求をしてくる。
「お尻、叩いてもらっていいですか?」
お互いに洋服は着たままである。厚めのデニムの上からなら、さしたる抵抗感もない。男同士、悪ふざけの延長線上だ。
「こうか?」
力加減がわからずに、軽く平手で打つと、ポスンと間抜けな音がした。
「もっと強く! 本気で叩いて!」
「あ、ああ」
高く腕を上げて、勢いをつけて振り下ろす。パシン、と先程よりも強い音が鳴るが、「もっと!」と言われる。これでは本当に、調教されているのがどちらなのかわからない。
「当たりどころが悪いです」
「気持ちが入っていません!」
「グーじゃだめです! お尻はパーじゃないと!」
その後、散々練習したところで、ようやく幹也のОKが出た。
「それでは、俺はこれから椅子になりきります。雪彦さんは、このまま読書してもらって、思い出したときに今くらいの強さで、俺のお尻を叩いてくださいね」
「はい……」
すでに精神的に疲労困憊しているのだが、せっかくここまで来たのだから、読ませてもらおう。雪彦はページを開き、目で追い始めた。
椅子になるという言葉どおり、幹也は以後、沈黙を保ったままだ。座り心地はお世辞にもいいとは言えないが、身じろぎひとつしない幹也の背中に座っているうちに、雪彦はいつのまにか読書に没頭していた。そういえば、と最初のうちは幹也の望みどおりに尻を強打したものの、途中で忘れた。
もともと集中すると、それ以外見えなくなるタイプである。
雪彦は一冊読み切って、疲労に溢れた溜息をひとつ。それから、ぐぐっと大きく背伸びをした。そこでようやく、自分が椅子にしていたものの正体を思い出す。
「あ、悪い」
慌てて立ち上がって、幹也の様子を確認する。しばらく同じ格好でいた彼の身体は強張っていて、ぎこちなく体勢を起こした。幹也の顔は赤い。興奮や羞恥の色ではないと、眉の角度や口の形から見て取れる。
「……忘れてましたね、完全に」
「すまん」
白い目で見られて、うっかり素直に謝罪してしまったが、だからどうして。
言いたい文句は、幹也の身体の上で一冊読破してしまった申し訳なさのせいで、喉の奥でつっかえた。約束は約束だ。ヤンキーは「男同士の約束」という奴に滅法弱い。
「今後は忘れないように、タイマーをかけておきましょうか……」
しばらくは人間椅子の上での読書が続くようだ。
やっぱり俺、早まったかな。
雪彦はげっそりとした。
>11話
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