愛は痛みを伴いますか?(36)

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35話

 しばらくは、こまめに早川と麻衣子は連絡を取り合っていた。しかし、それが三日に一回から一週間に一回となり、一ヶ月に一回まで減り、ついには連絡が途絶えた。早川の生活も忙しくなり、なかなか麻衣子たちのことまで、気を回すことができなくなった。

 この時点で、手を打っておくべきだった。

 早川の述懐は、後悔に塗れていて苦々しい。麻衣子による虐待は、再開していた。一度通報されてからは、より陰湿なやり方になっていった。

「麻衣子が事故で死んだのは、それから数か月後のことだった」

 長い昔話も、終盤に近づいていた。早川は高速出口に車を走らせた。

 歩道橋の階段から落ちた。運び込まれた病院は、くずの葉総合病院だった。幹也にとっては、不幸の始まりだった。他の病院ならば、幹也は早川の手元で育てられることになっていただろう。少なくとも早川は、妹の虐待の件からずっと、そのつもりでいた。

『幹也!』

 霊安室には、医者と一緒に幹也がぽつんと佇んでいた。児童相談所で会ったきりだが、幹也は早川のことを覚えていた。そのとき以上に彼は痩せており、服で見えない部分に暴行の痕があることは、簡単に予想がついた。

 傍らに立つ医師が、彼の父親であることを、早川は知らなかった。甥が不憫でならず、傷に障らぬように、そっと抱き締めた。

『おじさん』

 それまで無表情だった幹也は、堰を切ったように、早川の胸の中で泣いた。泣き喚いた。要領を得ないながら、なんとか早川が聞き取ったのは、「ぼくのせいだ」「おかあさん、死んじゃった」というリフレインだった。

「麻衣子は幹也の目の前で階段から落ちた」

「まさか」

 幼い幹也が、母親を階段から突き飛ばしたとでもいうのだろうか。早川は首を横に振る。

「何人も目撃者はいた。麻衣子は自分で足を滑らせただけだ」

 歩道橋の上で、「もう歩けない」と子供らしくぐずった幹也のことを、ひどく怒鳴りつけ、頬を叩いたのを目撃されている。怖いもの見たさで、その後の母子の様子を見ていた人間が多かったことが、幹也を助けた。「ぼくのせいだ」を繰り返すあまり、葛葉の人々は、本当に母親を殺した恐ろしい幼児だと信じかけていた。

 葛葉は、幹也を引き取ろうとした。当然、正妻と息子は反発した。愛人とその間にできた子供の存在すら、寝耳に水の事態だったのだ。

 それでも葛葉は強行した。妻に「あなたと血が繋がっていないかもしれないわ!」と、問い詰められれば、親子鑑定を依頼するという徹底ぶりであった。血の繋がりが証明されると、葛葉は悪びれることなく、手元に置いた。赤ん坊のときは、顔を一目見ることすらせずに捨てたくせに、葛葉は幹也に執着した。

「もうその頃には、息子が馬鹿だってわかってたからな。幹也は長男が医大に受からなかったときのためのスペアだったんだ」

「スペア……」

 いくら早川が引き取ると主張しようが、無駄だった。この国では、血の繋がりを重視する。例え、一度も会ったことのない人間であっても。早川が独身であるというのも、各所が難色を示した。実の父がいるのだから、そちらに引き取られるのが道理である。誰もがそう考えたのだ。

 その結果、幹也は窮屈な環境で育った。父親は幹也に英才教育を施す。賢い幹也が応えると、さらに上を要求される。愛情ではない。病院の発展のためだけに、彼は幹也を飼い殺す。それでも父の態度はまだマシな方だった。兄や母は、幹也を嫌い、疎んじ、虐めた。

 早川は何度も助けようとしたけれど、ことごとく失敗した。結局彼が甥と再会できたのは、幹也が高校生になり、一人暮らしを始めたからだ。何かあったときのため、と合鍵を渡されていた。親族の気安さから、アポを取らずに訪ねて、幹也が当時のパートナーとSMに興じている場面に遭遇し、彼の性癖を知った。

「説教したけれど、『俺は虐められないと生きていけません。だったら伯父さんが、パートナーになってくれますか?』なんて言われてみろ。絶句するわ」

「そう、ですか」

 この調子だと、本当に早川と幹也の間には何もないらしい。雪彦があからさまにホッとしているのに、早川は唇を歪めた。

「今頃幹也は、経営会議の場にいるはずだ」

「経営会議……」

 そういえば、幹也の兄もそんなことを言っていた。

 会議の存在や日時をリークしたのは、早川に幹也の一人暮らしを伝えたのと同じ人間だ。くずの葉に勤める医師で、学生時代からの早川の友人である。表面上は院長に尻尾を振りながら、その実、吐くほど嫌いなのだと言う。

「幹也のパートナーであるお前のすべき仕事は、会議をぶっ壊して、幹也を救い出すこと。シンプルだろう?」

 早川は笑った。

 さぁ、覚悟はいいか。

 車は駐車場へと向かう。

37話

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