迷子のウサギ?(42)

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41話

 驚いたペットのウサギは、少女の元からひょこひょこと離れようとする。待って、待って。そう言う少女は転んだ拍子に怪我をしたのか、雪でつるりと滑って動けない。

 考えるよりも先に、身体が動いていた。持っていた荷物を地面に置くと、俊は駆けだして、まずはぴょこりぴょこりと跳ねていくウサギを捕まえて、抱き上げる。温かい生き物は不思議そうにひくひくと鼻を蠢かしていたが、おとなしく俊の腕の中に納まっていた。

 そのまま俊は、少女の元へとゆっくり歩いていく。胸の前にいるウサギの身体が、とくとくと生きていることを伝えてくる。それをすぐに失ってしまうのは惜しい、と歩みは本当に、遅かった。

 少女は泣きそうな顔で、俊を見上げていた。正確には、俊が抱いている、ウサギの姿を。彼女に顔を見せるように俊はウサギを抱き直す。

「……名前は? この子」

 そんなことを聞かれると思っていなかったのか、少女はまごまごと口ごもった。俊とて自分が子供に好かれるような顔はしていないという自覚はある。人好きのする笑顔を浮かべるのは苦手だし、眼鏡の奥の目はおそらく冷たく映っている。けれど根気よく待っていると、彼女はおずおずと、「ココアちゃんって、いうの」とたどたどしい口調で名前を教えてくれた。

 ココア、というよりもやはりこの色はミルクティーに近いな、と思ったが俊はそれは口には出さず、ただ、「可愛い名前だね」と言うにとどめ、ココアという名前のウサギを彼女に返した。

 ペット――いいや、家族であり友人であるウサギを褒められて、少女は一気に心を許して笑った。

「一人でどこに行くの?」

「一人じゃないもん! ココアと一緒!」

「ああ……ココアちゃんと二人で、どこに行くの?」

 おばあちゃんち、と少女は元気よく言った。

「おばあちゃんも、ココア大好きなの! でね、かぜひいちゃったっていうからココアとおみまいにいって、元気になってもらおうと思って……」

 でもころんじゃった、と肩を落とす少女の頭をぽんぽん、と撫でてあげて、

「おばあちゃんの家は、ここから遠いの?」

 と尋ねると、彼女は首を横に振った。

「一人で、行ける?」

「うん。えりちゃん、赤ちゃんじゃないもの!」

「そっか。でもおばあちゃん、寝てるかもしれないから先に電話した方がいいと思う。電話番号、わかる?」

 えーと、とポケットを探り、少女は少女漫画雑誌のふろくと思われる手帳を取り出した。

「わかるよ」

「じゃあ、これでかけてごらん。ココアちゃんは、僕が抱っこしててあげるから」

 スマートフォン端末とココアを交換して、使い方をレクチャーすると最近の子供らしく、すぐさま操作を覚えて、ささっと電話をかけ始める。

「おばーちゃん? えりだよー」という声をBGMに、俊は胸の中の小さなウサギを見つめた。ココアは何を考えているのかわからないが、敵意を持っているわけではない俊のことを、なんとなく受け入れて暴れずにおとなしく抱かれている。黙っていても、ぬくもりから伝わってくる。

 ウサオ、と小さな声で名前を呼んだ。ココアと同じ毛色の、けれど似ても似つかない大きな身体を持った、おおらかに感情を表現する男の名前だ。

 電話を終えた少女は「おばあちゃん起きてたー」と笑って俊を振り返り、不思議そうな顔になった。その顔すら、滲んで見えにくい。

「なんで泣いてるの?」

 頬を流れ落ちていく、涙。胸の中のココアが温かい。

「さぁ……なんでだろう」

 温かいということは、生きているということだ。ベッドの上、温かな身体を抱きしめて眠ったのは、ついこの間までの日常だったのに、それを棄てたのは自分だろうか、それともウサオだったのだろうか。

 はい、と手渡されたスマートフォンを受け取り、ウサギを返すのにかがんだ俊だったが、彼女はウサギを受け取るわけでなく、手を伸ばした。その手が俊の頭に触れる。ぽん、ぽん。先ほど俊が少女にした仕草を真似て、彼女は俊を慰める。

「おなかいたい? あたまいたい? だいじょうぶ?」

「……大丈夫。ありがとう」

 ほら、とココアを渡すと彼女はキャリーケースの中にココアを入れて、また両手で抱えあげた。

「もう転ばないようにね」

「うん。お兄ちゃんありがとう。またね」

 少女の後ろ姿に俊は、いつまでも手を振っていたい気持ちに駆られた。いや、少女というよりも、ウサギに。だがそうは問屋が卸さない。母が除菌ティッシュを持って、鬼のような形相で俊の手を取ったせいだ。スーパーに戻って買ってきたのだろう。先ほどまでは持っていなかった。

「あんな動物に触って! 汚いじゃないの!」

 ごしごしと彼女は俊の手をティッシュで拭う。真っ赤になった手がひりひりと痛んだ。

「まったく! 最近じゃ犬だけじゃなくてあの汚らしい奴まで散歩させる奴が増えたっていうのに! 冬だからって油断したわ。ごめんねぇ、俊。嫌な思いさせて。ほら、帰りましょ」

 繋ごうとした手を、俊は振りほどいた。

「俊?」

 嫌な思いなんて、していない。しているとしたら、今現在、母の金切声を聞いていることだ。ウサギの小さな、温かな命に触れたことは、俊に、ある気持ちを思い起こさせた。

 守らなければならない。誰かに拉致されて遺伝子手術を勝手に行われ、ウサギの耳と尻尾を生やすことになり、そのうえ記憶喪失になった、彼のことを。身体だけならば余程、俊の方が彼に守られる立場に見えるけれど。

 彼は弱くはない。けれど強くもない。ぱっきりと折れてしまいそうな硬い強さであって、柔軟な柔らかさとは違う。

 料理やテレビドラマに熱中しているように見えて、誰よりも記憶が戻らないことに焦っているのは本人だ。そして、ウサギとしての本能が芽生えて発情期を迎え、傷ついたのは逆レイプされた俊よりも、理性を働かせられなかった、ウサオの方だったのだということに、俊はようやく、心の底から得心したのだ。

 ごめん、と思った瞬間に、また涙がぽろりと落ちた。あらやだ、と母が指で拭おうとするが、それも乱暴に振り落とした。

「俊? どうしちゃったの?」

「帰らなきゃ……」

 声は掠れていた。ええ、帰りましょう、と訝しみながらも促す母に対して、首を横に振る。ポケットに触れた。財布とアパートの鍵は、入っている。

「帰らなきゃ、いけないんだ」

 待ってる人がいる。謝りたい人がいる。ウサギだというだけで憎むような、母のような人間と、自分は違う。

 スーパーが面しているのはちょうど、大通りだ。タクシーもよく通る。走り出そうとした俊を、母は必死に止めようとするが、俊の気持ちはもう、ウサオと二人で暮らすあの部屋へと向かっていた。

「帰らなきゃ駄目なんだ! 俺は! あいつのところに!」

 追い出されたくない一心で大きな身体を小さくして過ごしていた。出来もしない料理を作ろうとした。それから料理がうまくなっても、時折あの初めての料理の苦さが舌に蘇った。ウサオと遊んでいるときの無邪気な顔。 

 ああ、全部大切な思い出だ。どうして発情して蕩けた顔や泣いている顔ばかり、思い出していたのだろう。そんなのはウサオと過ごした日々の、ほんの一部じゃないか。ウサオと一緒にいたいと思った気持ちは、偽物なんかじゃ、ない。

 伝えなければならない。お前との日常が、愛おしいのだと。

 これからも――願わくは、お前の記憶が戻ったとしても――ともに暮らしたいのだ、と。

 傷つけた責任は取らなければならない。俊はタクシーを拾い、「駅へ」と告げた。

 まだ間に合う。ウサオは優しいから、心から謝罪すれば許してくれるに違いない。そう思っていた。

 ――けれど、事態はすでに、俊にはどうしようもないことになっていた。

 俊はまだ、何も知らない。

43話

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