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<9話
それは百合子の記憶を呼び起こす、悪魔の囁きにも等しい。
「本当に、浅倉の子供なのかな……」
百合子に話しかけているというよりは、完璧に独り言だった。聞きとがめて、百合子の涙は引っ込んだ。
「どういうこと」
「ああ、いや……話半分に聞いてほしい。ただの思いつきだからさ。百合子さんの話だと、その女って、百合子さんみたいな一途なタイプとは、正反対なわけじゃん」
「ええ」
夏織は間違いなく、清楚ビッチという奴だ。狙った男は逃がさない。
実際、文也と付き合う前は、彼女の周辺は常に、色っぽい噂話が飛び交っていた。
「それに、浅倉は草食系男子なんでしょ? 今まで男をとっかえひっかえしているような女が、浅倉みたいな男で満足できるものかな」
どう思う? と問われ、百合子は唐突に思い出した。涙はすっかり渇いていて、冷静な心も戻ってきた。
「……そう。そうだわ。私、見たことある! あの女が付き合ってた男の姿!」
あれは去年のいつだっただろうか。外にランチに行った帰りに、夏織と会っているのを見かけた。
夏織は周囲をちらちらと確認していた。誰かに目撃されていないか、警戒していたのだろう。百合子にばっちり見られていることを知らずに。
向かい合っている男は、背が高く、遠目にも精悍な顔立ち、身体つきをしている。その当時、百合子は「ああいう男が趣味なのね」という感想を抱いて、「彼氏?」と何の気なしに尋ねた。
夏織は「兄です」とかたくなに言い張ったが、二人の顔はまったく似ていなかった。
あの男と文也は、まるきり正反対のタイプだ。
何よりも違うのは、その立ち姿である。文也は彼自身の美点を体現するかのように、真っ直ぐに、ピンと背筋を伸ばして立つ。
だが、男は猫背で、しかもポケットに手を突っ込んでおり、夏織に擦り寄るような素振りを見せていた。
「あれはきっと、ううん、絶対に、ヒモよ」
女に寄生するのが常になっている男が、いきなり自立して生きていけるはずもない。ああいうタイプの男は、自分を必要としてくれる女を見分ける嗅覚が優れていて、しかも、相手の心を掴んで離さないテクニックにも長けている。ドラマの受け売りだが、間違いない。
そしてそんなクズに惚れる女は女で、問題がある。少し優しくされれば、ころっと騙されて、元の鞘に収まる。まさしく割れ鍋に綴じ蓋というやつだ。
「ヒモなら、そう簡単には女を手放さない、か……ありうる話だね」
サトルは唸りながら、百合子の仮定に同意を示した。
「でしょう!?」
我が意を得たりとばかりに、百合子は興奮する。
もしも百合子の考え通りに、夏織と男の関係が切れていないとすれば、それはすなわち。
「あの女の子供が、浅倉くんの子とは、限らないじゃない……!」
文也の辞書には、浮気という文字はない。だから、婚約者が自分を裏切っているなんて、思いもよらないに違いない。
教えてあげなきゃ、と意気込んでスマートフォンを取り出した百合子の手を、サトルは押しとどめた。
「どうして!」
サトルは首を横に振り、百合子を諭す。
「証拠がない」
と。
私がやったという証拠があるのか。そんなに言うのなら、証拠を出せ。そう言って追及をかわしてきたが、その発言が今、百合子の元にブーメランのように戻ってくる。
「親子鑑定とか……」
「今は生まれる前にもできるみたいだけど、お金かかるよ。二十万円とか。誰が出すの?」
なおも言い募る百合子を、サトルはばっさりと切って捨てた。二十万円の出費は痛い。お金は出すからやっておいた方がいい、と軽々しく言えるレベルの金額ではない。
「それに、彼女が浮気してるかもって言っても、絶対に信じないでしょ、その人」
妙に確信を持っているらしく、サトルは断言した。まるで文也の人となりを見てきたかのように語る。
おそらく、会う度に文也について語るものだから、自分も知り合いのような気にでもなっているのだろう。
「それより、せっかくネタを掴んだんだから、もう一歩、先に踏み込んでみたらどう?」
「先って?」
文也をつついても無駄ならば、標的は夏織以外になかった。コツコツとテーブルを指で叩きながら、サトルは提案する。
いつだって、彼のアドバイスは、百合子を強くしてくれた。だから、なるべく実行したいと思っていたのだが、百合子は彼の言葉を聞いて、「それはちょっと……」と、返事を躊躇った。
「なんで? 今までの嫌がらせと、そんなに違わないでしょ?」
サトルの笑顔は、いつも通りだった。それが逆に、怖かった。
彼は百合子に、夏織の家を知っているかを尋ねた。行ったことはないが、住所は同じ職場だから、簡単に調べることができると百合子は答えた。
「そこに手紙を送ってやればいいよ。お前のお腹の子の、本当の父親を知っている、ってね」
月末で夏織は退職するから、これ以上彼女にダメージを与えることはできないと思っていた百合子だったが、サトルは夏織を逃がす気はないらしい。
もはや、百合子とサトルと、夏織に復讐したいのは本当はどちらであるのか、わからなかった。
「でもそれって、下手をすると脅迫だとか、ストーカーだとか思われないかしら。私、あんな女のせいで捕まりたくないわ」
「捕まらなきゃいいのさ」
珍しく、百合子が宥める側に回った。
サトルはしつこく、文面を工夫すれば大丈夫だとか、家の郵便受けにポスティング業者を装って直接投函すれば、消印も残らないなどと、夏織に悪意を送り届ける術を、いくつも提案した。そのことごとくを、百合子は首を横に振って拒絶した。
話している相手が突飛もないことを言い始めると、人間というのは幾分か、頭が冷静になるものらしい。
すっかり激昂からさめた百合子は、「もう、いいわ」と呟いた。
「もういいって?」
「言葉通りよ。もう、いいの。浅倉くんは、悔しいけどあの女と結婚する。その未来はもう、変えられないもの」
だからといって、素直に祝福はできないけれど。百合子はそう、小さく笑んだ。
「もう、私にできるのは、生まれてくる子供が、浅倉くんに似ていないことだけだわ。そうすれば彼だって、あの女の本性に気づくでしょ」
サバサバと言い切った百合子に、サトルはまだ不満そうだったが、すべて黙殺した。
そうしなければ、決心が鈍ってしまいそうだった。サトルの口車に載せられて、きっと脅迫まがいの行為に手を染める。
そんな未来が鮮明に描けてしまったから、百合子はそっと、サトルから離れようと決意した。
>11話
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