百合子(11)

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この章のはじめから

10話

 夏織が退職した。中途半端な季節であったのと、彼女が妊娠しているということを鑑みて、特に送別会は開かれなかった。

 元気な子供を産んでくださいね、とか、結婚おめでとう、という明るいメッセージを告げる同僚たちは、どうやら秘密裏に、夏織への花束を用意していたらしい。勿論、百合子には何の打診もなかった。

 夏織を陥れるべく、健気に働いていたときの反動だろうか。夏織が妊娠を発表した日から、夏織のことをいまだに敵視しているのだということが、皆にばれてしまった。それ以来、明らかに避けられている節がある。

 別にもう、構わなかった。課長に媚びを売る必要もなくなったから、朝早く出勤することも、柄にもなく掃除を一生懸命にすることもない。

 ただ、いつもどおりのルーティンワークをこなせば、一日は過ぎていく。住民票を始めとした書類を渡すときですら、百合子の頭を占めているのは、今日は何を食べようかな、ということばかりだった。

 夏織という攻撃対象を失い、文也にも無視されている現状で、百合子のストレスを軽減してくれるのは、美味しいものを食べることだけになっていた。

 昼休みになり、百合子はまずトイレに行った。手を洗っているときに、ふと鏡を見ると、顎と額に、目立つニキビができている。化粧のノリも悪く、午前中の業務を終えたばかりだというのに、ファンデーションが崩れて毛穴が丸見えだ。

 百合子は溜息をついた。メイク直しをするのは面倒だし、どうせ誰も気にしないのだから、このままでいいか。それよりも昼食が優先だ。

 ティッシュで鼻の脂だけ拭きとって、百合子はトイレを出て、食堂に向かう。午前中の熟考の結果、今日はカルボナーラを大盛りにして、それから単品でからあげを頼むことにした。

 食堂に姿を現した百合子を、周囲の職員たちは、遠巻きにしていた。ふん、と百合子は鼻で笑う。いいのだ。座席を取るのに困らない。

 いただきますもそこそこに、百合子は猛烈な勢いで、スパゲティを啜り始めた。クリーム系のパスタは、蕎麦やラーメンと同じように、音を立てて啜り食べた方が美味しい気がする。

 昼食の途中だが、百合子の意識は家での夕食を何にしようか、というところに飛んでいた。からあげを食べながら、食堂のも美味しいけれど、母のお手製のも美味しいんだよな、と思う。

 実家に帰ろうか。もう文也を連れ込むことなんて、望めないのだから。

 そんなことを考えていた百合子は、周囲の喧騒が変わったことに、気づかなかった。

 食べることを邪魔されるのが、最も嫌いな百合子は、背中を叩かれて、「なによもう」と億劫に振り返り、ぎょっとした。

 夏織がいた。退職時よりも、やや腹は膨れたが、頬はこけていて、病的だった。落ちくぼんだ眼孔にはまる目は、鋭く百合子を睨みつけている。

 百合子は何も言えなかった。異様な様子に、怖気づいた。触れてはならないタイプの人間だ。こちらから突いたら、爆発してしまいそうな危うさを抱えている。

 夏織は腹を愛おしそうに撫で擦った。だが、その顔に母としての愛情は、感じられない。

「私は幸せになるの。愛される妻、可愛い子供の母親として!」

 そう叫んだ夏織に、食堂はしんと静まり返った。自己愛のバケモノ。この女は、どこまでも自分のことしか考えていない。

 何言ってんのよ。

 だが、百合子の声は情けなくも震えていた。夏織はぎろりと百合子を睨みつけ、「あんたでしょ! 嫌がらせの手紙を送ってきたのは!」と言う。

 百合子は息を呑んだ。嫌がらせの手紙だって? しかも中身は、夏織の支離滅裂な話を総合すると、文也の子ではないといった中傷文。

 サトルの提案通りだった。まさか、彼が百合子の代わりに実行したとでもいうのだろうか。しかし、彼がそんなことをする義理はない。

「知らない! 私じゃないわ!」

 サトルへの疑惑が頭を巡り、否定するのが一瞬遅れた。それが、夏織の怒りをますます増大させる。

「しらばっくれないで!」

 辺りをつんざくように響いた夏織の声とともに、百合子は痛みを覚えた。最初は手の甲。そして、顔。

 何が起きたのかわからなかった。悲鳴を上げたのは、百合子よりも周りで見ていた人間の方が速かった。

 じくじくと痛む頬に、おそるおそる触れると、指に血がついた。どうして自分の顔から、血が流れているのだろう。

 夏織の手元に、血のついたカッターが握られているのを見て、百合子はようやく、自分が切りつけられたのだということに気がついて、悲鳴を上げた。

「痛いっ! 痛い痛い痛い! きゃああああ!」

 百合子の大きな声は、衆目を集めた。その隙に、加害者である夏織はさっさと逃げ出した。痛い痛いと喚く百合子に、しかし、近づく者は一人としていなかった。

「うぅ、止まらないよ……」

 ぽろぽろと涙を零していると、「渡辺さん!?」と、懐かしさすら感じる、愛しい男の声が聞こえた。騒ぎを聞きつけたのか、それとも誰かが知らせたのか。文也が食堂に駆けつけた。

「あ、浅倉くん、浅倉くん……っ! あ、あの女が……っ、古河夏織が!」

 そんな馬鹿な、と彼の表情が如実に物語っている。百合子の証言だけであれば、狂言だと一蹴することも可能だったかもしれないが、残念ながら、今回は多くの目撃者がいる。

 文也は百合子の怪我の心配をしながらも、周りの人間を見渡して、本当に夏織がこの惨事を引き起こしたのだと、理解した。

「……まず、百合子さんの怪我の手当を。誰か」

 静かな声に、「じゃあ、私が」と手を挙げたのは、百合子とはほとんどかかわりのない部署の女性職員だった。

 再び「百合子さん」と呼びかけられた喜びと傷の痛みに震えながら、百合子は出ていこうとする文也の名を呼んだ。

「浅倉くん。どこに行くの」

 立ち止まった文也の背に、百合子は傍にいてほしいと祈った。だが、無慈悲なことに彼は、振り返ることすらしなかった。

「夏織さんを、探しに行きます」

「浅倉くん!」

 もう一度呼ぶが、百合子の声はもう、彼には届かない。何の反応も見せずに、文也は颯爽とした足取りで、自分の婚約者を追う。

 ああ、まただ。百合子はわっと声を上げた。切られた頬の痛みよりも、またいないものとして扱われたことが、何よりも悲しく、百合子には痛いことだった。

12話

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