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<26話
塞ぎこんでいる露子の気づかぬ間に、秋と冬は過ぎていった。弥生の頃になって、露子はちょうど、一年前のことを思い出していた。
幸せだったな、と思う。父がいて、雨子がいて。結婚の話が降ってわいてきて、慌ただしく輿入れの準備が始まった。
けれど父はいない。俊尚の顔は勿論、烏の姿もしばらく見ていない。雨子は露子のことをずっと心配し通しで、とうとう体調を崩して実家に帰っている。
部屋の外には監視の目が絶えない。露子自身は、あの件で利用されただけの立場だが、身内があれだけのことをしでかしたのだ。信用は地に落ちていると理解しているから、俊尚邸から一歩も出ていない。
まだ朝廷、帝からの沙汰はない。よくても出家して、帝や桜花のいる京に足を踏み入れることは一生許されないことは、明白だ。
ならばいっそのこと、と、露子は人目を忍んで釣殿へと向かった。夏になれば蓮の花がささやかにも美しく咲く池だが、今はまだ、寒々しいだけだ。
袂から、ずっと使っている小刀を取り出す。三年前、これで髪の毛をばっさりと切り落とすなんてことをしなければ、父は今も。
そう思うと、知らず涙が零れそうになったが、ぐっと堪えた。鼻の奥が痛い。
一瞬だけ、刀をどこに押し当てるか迷ったが、結局はあの日と同じように、髪の束に押し当てた。
少し力を入れるだけで、ぷつりと癖のある髪の毛は切れる。だが、わずかな毛を切り落としただけで、終わった。
髪の毛をばっさりと切るよりも先に、露子の手は強く叩かれ、小刀を落としていた。少年の手がそれを拾って、池に投げ捨てる。
「どうして」
どこから走って来たのか、烏は肩を上下させて息を切らしていた。怖いくらい真剣な顔をしているものだから、露子はごまかして笑った。別に、死ぬつもりなんかないわ、と。
「どうせ、出家を帝に言い渡されるのですから、今髪を尼そぎにしたっていいでしょう?」
竦めた肩は、烏の力強い手で掴まれた。子供の力ではない。大人の男の強さだった。
「あなたは源俊尚の妻だ!」
「烏……」
「勝手な行動は慎んでください。私が、なんとかします……私のことを信じて」
二度目ね、と露子は微笑んだ。
――俺の言葉を信じろ。
幼い露子を慰めてくれた、忘れられない言葉。薄い色の、優しい瞳。夢の中に何度も現れたのは、そう。
烏はぽかん、とした顔で露子から手を離した。
「二度目ね、信じろと私に言うのは……俊尚様」
>28話
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