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<<3話のはじめから
<【27】
いつだってこの入り口に立つときは緊張するのだが、今日はひとしおだった。なにせ、ひとりじゃない。
僕の隣でワクワクを隠せていない大輔を見上げて、こっそりと息をつく。
コロッケ一個とでは、僕の心労が全然釣り合わないじゃないか。
店から、糸子から逃げてきた自分には、正直荷が重い交換条件だったが、大輔は、今となっては唯一、僕のことを気にかけてくれる存在ともいえた。
両親はあんなだし、篤久も入院中。退院しても、もとの親友に戻ることはない。クラスメイトにも遠巻きにされている現状、何の先入観もなく、ただ「幼なじみの弟」という目で見てくれる大輔は、貴重だった。
彼の頼み事は、無条件で聞かないといけないと思うほど、負い目がある。
見上げる大輔は、そわそわしていて、今にも勝手に扉を開けて、突撃しそうだ。さながら僕は、手綱を握る飼い主か。
年上の男を犬扱いするのは失礼だが、大輔はどこか、大型犬っぽいところがある。盲導犬とか警察犬とか、賢さを活かしたタイプではない。番犬にもなれない、一般家庭のレトリーバー犬……には、愛くるしさが足りないか。
うん、成人男性が腹を出して寝ころび、きゅるんとした目で見上げてくるのを想像してしまった。キツい。
大輔は、糸子に一目惚れしたのだと言う。
まさかあの店に、成人済みの男ひとりで行ったのかと問えば、首を横に振った。花屋で買い物をしている彼女を見かけたらしい。そのときの横顔があまりにも美しく、忘れられないのだという。
一瞬しか見ていないのに、よくもまあ、それだけ語る言葉が出てくるものだと呆れつつ、僕は「あの人、外に出ることがあるんだな」と、全然関係ないことを思った。
僕の知る店主・黒島糸子は、ほいほいと外に出かけていくタイプではない。スーパーのレジに並び、ポイントカードのやりとり、レジ袋を受け取る。
当たり前の買い物姿は、まったく思い浮かばなかった。店の中ですら、僕が見ている範囲では、歩いたりしないで、ずっと座ったまま。会計のときだけ立ち上がる。
花なんて、店には飾っていた記憶がないから、プライベートのものなのだろうか。誰かに贈るためのものかもしれない。
花を抱えている想像図は、様になっていた。きっと赤だろう。糸子には、色とりどりという言葉が似合わない。
彼女自身の持つ色彩と同じ色の花に違いない。髪の黒、肌の白、唇の赤。
「あの、大輔さん。やる気になってるとこ、水を差すようで悪いんだけど」
「ん?」
「あの人、大輔さんの理想とはだいぶ違う人だと思うけど、大丈夫?」
一目惚れには、あまりいい印象がない。
篤久も、そして自分も、人生が狂ってしまった。
大輔も、糸子の外面(人間離れした美貌!)を見て、勝手にその内面を妄想している。
今から待望のご対面だが、絶対に想像の中の糸子は、素晴らしい人間になっているに違いない。知的で清楚で妖艶で、みたいな。
大輔がショックを受けるのを和らげようとしたのだが、彼はきょとんとした。
「いや別に、どんな人なのかはこれから知ってくわけじゃん。大丈夫も何もないけど?」
亀の甲よりなんとやら。たった五つ、されど五つ。恋愛にも盲目にならずに、しっかりと現実を見据えている。僕や篤久とは、全然違う。
「早く入ろうぜ。暑いし」
「……わかった」
扉を開けると、涼しい風を感じた。古い建物の情緒や味は残しているが、「地球温暖化」なんて言葉がなかった時代の家は、そのままの設備だと、現在では人が住めないほど、環境がよくない。
浮世離れした糸子であっても、さすがに日本の夏を冷房なしで過ごすのは厳しい。汗をかいているところを見たことがないのは、ガンガンにクーラーをかけた店内に、ずっといるからだ。
僕は急いで、冷えた空気を逃さないように後ろ手で扉を閉めた。
「いらっしゃいませ」
ちら、と見上げる彼女の目は、いつも通り黒々と光っている。
ただの客ではない。隣に他でもない僕がいるというのに、気にした様子は一切ない。一瞬だけ、大輔に目を合わせて微笑んだかと思うと、再び目を落とした。
僕は隣の大輔を、肘でつんつんとつついた。初恋をこじらせた子どもじゃなく、酸いも甘いも知っている大人だろう。ここから先は自分で頑張りなよ。そう見上げて、固まった。
この顔には、見覚えがある。糸屋に来る前、美希を前にした篤久と同じだ。意中の相手に対して、自分から行動ができない。いわゆるへたれ男の様相を呈している。
大人の男はやっぱり違うんだなあ、と感心した、僕の気持ちを返せ。
大輔は「う、あ」と、短く声をあげた。そして、僕の背中をバシン、と叩いた。激痛に、息が詰まる。体育会系の男は、みんな力の調節機能が壊れている。
そういえば大輔は、篤久とも野球繋がりで親しくしていたっけ。OBとして、練習に付き合ってくれたり、ジュースやアイスを差し入れてくれたり、世話になったそうだ。
篤久は大輔のことを「師匠」と慕っていて、肉屋にもよく立ち寄っていたことを思い出す。
師匠と弟子は似るものなのか。大輔はすっかり挙動不審である。
親友なら付き合うところだが、さすがに大の男としてどうかと思う。僕はフォローする気にならなかった。黙って大輔を睨みあげた。
何度か口をパクパクさせ、勇気を出して話しかけようとしていた大輔は、しかし、すぐに諦めた。
肩を落とした彼は、買えるでもなく、店内を物色し始めた。糸もリボンも、興味ないだろうに。
観察して、ようやく気付く。買い物さえすれば、言葉を交わすことができるという作戦だ。なるほど、考えたものである。
大輔は引き出しを開けて、糸を取り出した。
「だめ!」
狭い店内に響き渡る声は、大きすぎて割れた。驚いて固まった大輔の手から、糸を奪い取る。
「紡、どうした?」
彼が買おうとした糸を、僕はぎゅっと握りしめ、ただ震えるだけ。
彼が手にしたのは、白い糸だった。
糸子は「縁を結ぶも切るも、信念次第」と言ったけれど、それでも赤や白、他人の運命を弄ぶこの二色の糸は、僕にとって不吉だ。
一瞬、怒りの感情を顔に載せた大輔は、僕の様子がおかしいことを見てとると、すぐに顔色を変えた。
行動の理由を、説明することはできなかった。都市伝説云々言ったところで、納得してもらえるとは思えない。
肩で息をする僕と、不思議そうにしている大輔。そして、店で何が起ころうとも動じない、糸子。なんという三すくみもどき。
膠着状態を破るのは、僕の役目ではなかった。
ガラガラ、バン!
扉が開く(開きすぎてぶつかり、反動で戻る)音に反応したのは、僕と大輔だけだった。
いらっしゃいませ、と反射的に言う隙すら与えずに、新たな登場人物は、ズカズカと僕たちに近づいてくる。
肌を隠すという概念がないのか、全体的に丈の短い服装の、いわゆるギャル。肌は夏に限らず、小麦色だ。
手芸なんてしそうもないし、おまじないに頼るまでもなく、「ウチと付き合わない?」と、冗談みたいな軽さで告白ができそうな、強さを感じる。
簡潔に言って、場違いな女性。僕も大輔も、彼女のことを知っている。
「渚……お前、なんでここに?」
今野鮮魚店の一人娘・渚もまた、大輔の同級生だ。すなわち、うちの姉とも。
呆然とする大輔に対し、キッ、と睨みつける渚。
身近な女性は、母、姉、それから学校の先生くらい。家族は特別なときしか化粧をしないし、教師は節度を保った薄化粧。クラスメイトにも、派手めな子はいても、ここまで典型的なギャルはいない。
だから、大粒のラメでギラギラしている目で睨みつけられるのは、免疫がなくて、ちょっと怖い。
動きを止めていると、渚は大輔に向かって怒鳴り散らした。
「こんなところで何してんのよ!」
と。
長い付き合いのはずの大輔は、なぜか僕以上にしどろもどろになっている。
「いや、その……な? うん、たまたまほら、チャーシュー用の糸がなくなったから、買いにだな」
「こんなとこに、たこ糸売ってるわけないだろーが!」
売ってるけど……この店は、「糸っぽいもの」なら何でも取り扱っている。
僕が口を挟む暇はなく、渚は大輔の首根っこを捕まえて、引っ張っていった。決して体格がいいわけじゃないのに、あの馬鹿力の大輔を引きずることができるなんて。
あっけにとられていたが、すぐに気を取り直す。
追いかけなくちゃ。
渚の様子からして、大輔の命が危ない。
僕は一度、糸子を振り返った。目の前でプチ修羅場が勃発したにもかかわらず、彼女自身は何事も起きていなかったかのように、いつも通りだった。
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