5 究極の選択(2)

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5-1話

 千尋ほどではないが、夏休み前にはレポートの〆切が重なっている。資料とにらめっこしながら、靖男はレポートを書きあげていく。

 向かい合って座っている千尋は、珍しく眼鏡をかけ、テキストとノートを交互に見比べている。細身のチタンフレームはよく似合った。今度は眼鏡にスーツで女教師ごっこをしようと思ったから、相当いかれている。

 しばらくそのまま二人で黙々とそれぞれの課題をこなしていたが、気を遣ったのか、千尋は背伸びをしながら「休憩にしようか?」と言う。一、二もなく同意した靖男は、ごろんと寝転んだ。

「う~……腰がいてえ……」

 笑って立ち上がった千尋は飲み物を用意しようとキッチンへと引っ込んだ。靖男はポケットを探ってスマートフォンを取り出す。千尋は写真のばらまきに怯えることはなくなった。転送したデータもすでに、消去してある。脅迫という理由もなく、千尋は女装した状態で靖男のセクハラを甘んじて受けているのが不思議だった。

 麦茶でいいよね、と戻ってきた千尋の手には、グラスを二つ載せたトレイ。男の一人暮らしに必要なものではないが、こういうのがそろっている辺りが千尋の千尋たる由縁であろう。

 おう、と起き上った瞬間、千尋が躓くのを見た。いや、躓くというのは正しくないかもしれない。だって床には何もなかった。身長に体格が見合っていない千尋は、簡単にどこでも転ぶ。

「う、わ、ちょ!」

 踏ん張ろうとするが、悲しいことに重力に人は勝てない。地面に引っ張られて、千尋は思いっきり転んだ。持っていたグラスの中身をすべてぶちまけて。

 靖男はとっさに自分のノートパソコンだけ、身を挺してかばった。千尋のテキストやノートをないがしろにするつもりはないが、どう考えても被害を受けそうな中で一番高価なものは、靖男のパソコンだった。

 幸いにして靖男の決死のダイブは間に合った。Tシャツという多大なる犠牲を払ったが。

「神崎! ごめん!」

 グラスは割れていないから手を切る心配はない。千尋は立ち上がって「ふきん持ってくる! 神崎はそこの衣装ケースの中からタオルと、適当にTシャツ出して着替えて」と言った。足を挫いたということもなさそうだ。

 びしょびしょに濡れたTシャツを脱ぎ捨てた。Tシャツはすぐに見つかったが、タオルがない。別の引き出しを開けて掴んだものは、タオルではなかった。

「神崎? 見つかっ……」

 靖男の掴んでいる布きれが何だか瞬時に判断できたらしく、千尋はわあああ、と言葉にならない叫び声をあげて靖男の元にダッシュして、手から布を奪い取った。手触りからいってシルクなのだろう、ソレ。男の一人暮らしでは到底家にあるはずのないもの。靖男は衣装ケースを更に覗き込んだ。

「ちょっと!」

 悲鳴を無視して取り出したのは、先ほどの可愛らしい白と違って、毒々しい赤だった。上下セットのそれを手に、「これはなに?」と靖男は聞いた。恐ろしいほどの猫なで声で。

 千尋は口をぱくぱくさせている。その目の前に、布きれを広げて見せると、彼は握っていた白い方の布をぎゅ、と握りこんだ。

「言わないと、警察に電話しちゃうよ? 一人暮らしの男の部屋にこんなものがありました。きっと泥棒ですって」

 結局いじめっ子はやめられないのだ。

「や、やめて! 言うから! パンツ! パンツです! あと、ブラジャー!」

 二人の手に握られているのは女性用下着だった。上下セットのそれはひらひらと頼りない。ショーツは随分と小さくて、千尋のペニスは収まりきらないだろう。じっと千尋の股間と手元の下着を交互に見比べる視線から察知して、

「言っとくけどそれ、男用だから!」

 と、千尋は叫んだ。

「……嘘だ」

 こんなに小さいショーツに収まるはずがない。未だにはっきりとは千尋の陰茎を見ていないから自分に置き換えて想像してみるが、それでも入りそうにない。

「入ったもん!」

 一八七センチの成人男性の台詞とは思えないが、妙に様になっているのが千尋の恐ろしいところだ。ふとその台詞に引っかかって、「入った?」と繰り返すと、千尋ははっとした表情になった。

「……すでに着用済み?」

 彼にとって女装するということは、イコール自慰行為を行うということだ。どっちの色をつけたのだろう。白か、赤か。 

 想像したらこちらも興奮してきそうだったので、話の矛先を変える。

「なんでいきなりパンツとブラなんて買ったんだ?」

「だって……」

 千尋は持っていたショーツを指で手繰り寄せてもじもじと手遊びを始めた。今になって下着まで女性用を買うということは、目に見える部分の衣装だけ変えても興奮しなくなってきたということか。

「だって……神崎が、スカートの中見ると萎えるって、言ったから……」

「言ったっけ、そんなこと」

「言った!」

 理系の執念深さというか、物事の正確さを重視するところが少し面倒くさい。自分よりも記憶力のいい千尋がそう言い張るのだから、おそらく気持ちいいことをして、さぁ寝ようという段階でぼそっと言ったのだろう。

「神崎がスカートの中見ても平気なように、買ったんだ。下着は初めてだったから、ドキドキした」

 靖男は手の中のショーツとブラジャーをじっと見つめた。いや、やっぱり入らないんじゃないかな、これ。そんな靖男に対して、千尋はそっと吐息を漏らすように囁いた。

「……見たい?」 

 それは明らかに、誘惑だった。靖男はまじまじと千尋の顔を見つめた。照れている様子でもなく、ただ「見たい?」と尋ねてくる。

 見たい。ものすごく見たい。そう思ってしまった。こちらに尻を向ける千尋が思い浮かんで、それはとてつもないセクシーな誘惑だった。

 千尋の薄い唇が、うっすらと開いていた。無防備な隙のある色っぽい顔だと思った。見たいから今、つけてみてくれないか。だがそう言うのは、一線を越えてしまうことのようで、躊躇した。

「……なんて、テスト前だからね。集中しよ。ほら、テーブル拭いて」

 持ってきたふきんでいきなりテーブルを拭き始めた千尋の顔には、先ほどまでのほんのりと官能的な顔はすでになかった。タイミングを逃すと悔しい。歯噛みしている靖男に対して、千尋は顔を合わせずに言った。

「テスト終わったら、見せるから……どっちがいいか、決めておいて」

 驚いて千尋をよくよく見ると、耳が赤かった。どこで身につけてきたんだ、その高等テクニック。

「お、おう」

 頷くとほっとしたのか肩の力を抜いて、千尋は拭き終わったテーブルに再びテキストとノートを並べた。靖男も一度深呼吸をして、ノートパソコンを開いてレポートの続きを書くことにした。

 しかしどうしても集中はできなかった。頭の中は来週〆切のレポートのことよりも、テスト後にどちらの色の下着を千尋に着せるかでいっぱいだった。

6-1話

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