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<18話
「上がらないのか?」
拳を握っていると、なんてことのないように早川はリビングへと戻ろうとしていた。雪彦はハッと思い出す。
買った物の中に、アイスクリームが入っている。こいつだけは、早急に冷凍庫の中に入れなければならない。
ドタバタと靴を脱いで、雪彦はキッチンへと直行する。勝手知ったる冷蔵庫である。週に三回は訪れているし、今日も約束をしていた。雪彦のために準備したと思しきドリンクには、マジックで「ゆきひこ」と名前が書いてある。微笑ましい気持ちになりながら、次々に品物を収めていった。
すべて完了してから手を洗い、リビングへ向かう。甥からのSOSを受けてやって来た早川は、タブレット型のパソコンを使っている。顔を上げずに、「それで、どこまで知っているんだ?」と雪彦に話しかけてきた。
「どこまで、とは……」
尋ね方に引っかかりを覚えた。
幹也との性的なプレイを行うパートナーだと見抜いたのなら、質問は「どこまでいっているのか」という内容になるのではないだろうか。早川が伯父として、甥の性の乱れを心配しているのならば。
だが、彼は「知っているのか」と聞いた。雪彦は正直に、「葛葉が肉体的な被虐趣味のある人間で、さらにそれを隠そうとしないのは知っていますけど」と答えた。
マゾヒストにもいろいろな種類がある、らしい。幹也に巻き込まれた雪彦は初心者で、その区別は曖昧だ。唯一わかっているのは、幹也はとにかく、自分の肉体を虐めてほしいと思っていることくらいだ。言葉責めを求められたことはない。羞恥プレイもない……むしろ羞恥心を味わっているのは雪彦の方だ。
雪彦の返事を聞いて、早川は鼻で笑った。
「それだけ?」
本当に性格の悪い男だ。幹也の伯父でなければ、関節をボキボキ鳴らして威嚇しているところだ。ぐっと耐えて、「それだけですけど!」と、つんけんした態度を隠さずに、鼻息を荒くした。早川は喉の奥でくつくつと笑うと、「君はまだ、幹也の完璧な主人とは言えないな」と、突きつけた。
「は?」
そんなん、なりたくもねぇし。俺は巻き込まれただけで、あいつに……あいつに。
嘲笑されて下を向いた雪彦を、早川はさらに挑発する。
「あの子は可愛いからね。甥じゃなければ、僕が相手をしてもいいのだが、あいにくと近親相姦の趣味はなくて」
下唇をぺろりと舐める男に、背筋が震えた。あの甥にして、この伯父あり。こちらは真性のSの人だ。
早川は固まっている雪彦を一切気にすることなく、時計を確認した。荷物をまとめ、「そろそろ病院に戻らなければ」と言う。
「君も医師の卵の卵なら、風邪を引いた人間の看病くらいできるな?」
と、言いつつも彼は、存外丁寧に指示を出した。雪彦も雪彦で、生真面目にスマートフォンにメモを取る。
「君が」
玄関で靴を履き終えてから、早川は振り返った。
「君がもしも、本気で幹也のパートナーになるのなら……」
早川は言葉を切り、「何でもない」と首を横に振った。思わせぶりな態度に、雪彦は会釈をすることも忘れ、立ち尽くした。
ようやく動き出すことができたのは、早川が完全にいなくなってからだった。ふらふらと部屋に引っ込んで、そっと寝室のドアを開ける。
幹也はよく眠っていた。目を閉じると、ただただあどけない表情になる。そういえば、寝顔を見るのは初めてだ。
「なんなんだよ」
本気のパートナー? それを世間では、恋人というのではないのか。俺に、葛葉の恋人になれと言うのか、あのオッサンは。
部屋に籠って不健全なプレイに耽ってばかりいないで、外へ出てデートして、キスをして。当たり前の恋人同士の、甘い関係。
雪彦は、自分と幹也とで想像してみた。慌てて打ち消したのは、なんだか楽しそうな光景が見えたせいだ。
「なんなんだよ……」
今度は自嘲して、雪彦は幹也の頬に触れた。見た目よりも柔らかい頬は、熱かった。
>20話
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