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<39話
「僕は! 人殺しじゃない!」
動こうとした雪彦を制して、幹也は震える声を張り上げた。
「あの日」
思い出したくもない、母が死んだ冬の日のことを幹也は目を閉じて思い出す。
あの日は、珍しく雪が積もっていた。慣れない雪道で体力を奪われた幹也は、歩道橋の上で駄々をこねた。おじさんと会ってから、お母さんは前よりも優しくなった。だから、多少のわがままは許されると思った。
疲れたから、抱っこして。
幹也の願いは、ただそれだけだった。何が逆鱗に触れたのかはわからないが、母はしゃがみこんだ幼い我が子を、強く殴打した。
『お母さんだって疲れてるのよ! なんでわからないの!』
人前で殴られたことへの混乱と痛みでわんわんと泣く息子に、母はとことん嫌気がさした。何を言われているのか、半分以上理解できなかったが、「お前なんて生まなきゃよかった」という言葉だけが、はっきりと聞き取れた。
そうか。お母さんは、ぼくがいらないんだ。
「じゃあ、僕もお母さんなんて、いらない。だから僕は、愛想を尽かして先に行こうとする母の背中に、こう叫んだんです」
お母さんなんて、死んじゃえ。
嗚咽と一緒に吐き出した呪いの言葉は、周りの人には聞き取れなかったが、息子の泣き声をよく知る母には伝わった。階段を下りかけていた彼女は、幹也をもう一度叱らなければならないと、急に方向転換をした。雪道用の靴なんて、持っていなかった。そのため、ずるりと足を滑らせた。
「僕の言葉が原因で母が死んだと思い込んだんです。でも、僕は何もしていない」
幹也は父親に目を向けた。いつだって、下を向いた陰鬱な表情で対峙してきた次男の強い視線に、彼は一瞬、たじろいでみせた。
「お父さんはあのときの僕に、何もしてくれませんでしたね」
「幹也……」
目の前で母を亡くした息子を、父は都合のいい駒だと思っていた。抱き締めてくれたのは、伯父だ。父は何もしてくれなかった。慰めの言葉も、母への弔いの言葉も、何もなかった。
当時の幹也に必要だったのは、何よりもまず、愛情だったのに。
「僕は、こんな病院、いりません。家族もいりません!」
明確な拒絶、決別の言葉に、父は少なからずショックを受けていた。
ざまあみろ。
雪彦は優しい性格をしていない。幹也を苦しめる種になっていた家族のことなど、庇いだてするつもりはさらさらない。この調子で縁を切って、早川と養子縁組をした方がはるかに幸せになれるだろう。おそらく早川自身、そのつもりだ。十四年前にできなかったことを、彼はやり直しにきている。
「病院の経営についてなど、もう僕には関係のないことなので、失礼します」
堂々と啖呵を切って退出する幹也について、雪彦も部屋を出た。あとは鶴見と早川が、どうにかしてくれるだろう。事実、鶴見が心底楽しそうな声で、「さてここからは、皆さんにあがっているパワハラ・セクハラ・その他犯罪行為について、つまびらかにしていきましょうねえ」と、地獄の会議の開始を宣言するのが、背後から聞こえていた。
おそらく、くずの葉総合病院の上層部は、ほぼほぼ全員降格だろう。監督責任を問われ、院長の座も危うい。代々受け継いできた立派な病院は、葛葉家の手から離れるに違いない。幹也の重荷がひとつなくなることを感じ取って、雪彦は彼の背を優しく撫でた。
>41話
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