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<22話
復調した日高に、早見は奇異の目を向けることはなかった。
「おはよう。体は平気か?」
気遣うセリフに、性的な好奇心はない。カチコチになっていた身体から、すとんと力が抜けた。
頷いた日高の顔色を慎重に窺って、ごまかしや嘘がないことを確認して、早見はようやく眉を開いた。
三日ぶりに食事をともにしていると、早見が「今日は外に散歩に行かないか?」と、微笑みかけてきた。
早見はもともと出不精で、外に出ずに過ごすことが苦ではないタイプだ。日高にいたっては、一人で出かけることを禁じられている。
思ってもみないお誘いに、日高は一も二もなく、「行く!」と、即答した。
車に乗って街へ行くわけではない。湖畔をゆったりと二人で歩くだけだ。それでも、発情期で自室からすらほとんど出ることのなかった日高は、皿を洗うにも、鼻歌がついて出る。
隣では、食後のいつものコーヒーを、保温水筒に注ぐ早見がいる。せっかくだから外で飲むのだ。見慣れた無表情が、ウキウキしているのがわかる。
きっと、湖のほとりで飲むコーヒーは、苦味の中にも爽やかさがあるに違いない。普段は彼が飲んでいるのを見ているだけの日高だが、少し分けてもらおうかな、と思った。
「早く行きましょう」
早見が靴を履き終えるのを待ちきれずに、日高は扉を開けた。
午前中とはいえ、夏の日差しが照りつけてくる。しかし、一歩梢の下に足を踏み入れれば、すぐに山の清涼な風が、肌を撫でていく。
いい場所だ。日高は思う。
山に慣れている早見に先導されて、ゆっくりと歩みを進める。
疲弊した身体と、ささくれだった精神を、澄んだ空気は受け止め、癒やしてくれる。早見がここで暮らすことを選んだのも、わかる気がする。
木漏れ日の優しさに、日高は立ち止まり、顔を上げた。名も知らぬ小鳥たちの歌声が、耳を楽しませる。
「日高?」
先を歩いていた早見が振り返った。日高はなんでもない、と首を横に振り、小走りに追いつく。
都会では、鳥の声なんて、雑音でしかなかった。メロディーを奏でていると捉えた自分自身に、びっくりした。
たどり着いた湖は凪いでいる。これだけ大きいのだから、さぞや観光名所なのだろうと思っていたが、隣接する駐車場に停まっている車はほとんどない。外に椅子を出してひなたぼっこをしているボート小屋の主人は、船を漕いでいる。
ボートを借りれば、あの日泳いで渡ったのと同じ場所にある小島に、すぐに辿り着けるだろう。やはり島には神社があった。闇夜に紛れてわからなかった鳥居の色は、鮮やかな朱である。
翡翠湖神社という名前から、緑色だとばかり思っていた。
>24話
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