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<8話
三日もすれば、殴られた頬の痣は薄くなり、痛みもほとんどなくなった。鏡の中の顔は、怪我をする前と相違なく、ほっとした。
放課後、友人たちと別れた薫は、色とりどりの傘の間を縫って、駅へ向かった。家とは逆方向の電車に乗り、車窓を眺めつつ、三十分。駅を出ればすぐ目の前には、来春から通うことになるだろう、大学のキャンパスが広がっている。
講義を終えた学生たちとは反対に、薫はキャンパス内に足を踏み入れた。ブレザー姿の高校生は、大学構内で目立つかと思えば、そうでもない。施設によっては老若男女に無料開放されているせいで、誰も気に止めない。
未来的な外観の図書館の奥には、それと真逆の、大地震が来たら崩れそうな建物がある。薫は傘を閉じて、入り口をくぐった。
玄関口にはイベント告知の立て看板を作っているグループがいて、ペンキの臭いが雨に混じっている。
薫は迷いなく、建物の奥へと進む。三階の最奥には、会議等に使用される、広々とした多目的ルームがある。ノックして、薫は入室した。
「おはようございます」
すでに夕方だが、いつだってここは、「おはようございます」が挨拶だ。ストレッチに励んでいる男女数名が、口々に「おはよう」を返してくる。
「おはようございます、仁さん」
わざわざ薫が直接目の前に行って挨拶をしたのは、劇団の代表である倉科仁だった。長く伸ばしっぱなしの髪の毛はだらしないのに、それがどこか、アーティストの香りを醸し出している、不思議な魅力を持つ人間だ。
「おはようさん、薫」
彼が率いる劇団『新月荒野』は現在、大学演劇界を牽引する存在である。学生演劇の枠を超え、一般の演劇愛好家の間でもよく知られた存在である。
高校一年のときに、彼の創り上げる世界観に触れた薫は、「自分も演じてみたい」と思った。薫の猛アプローチに仁が折れる形で、まだ高校生の身だが、こうしてレッスンに参加させてもらっている。
早速薫は着替えて、稽古に参加した。脚本・演出、そして役者として舞台にも立つ、マルチな才能の持ち主である仁は、自分にも他人にも厳しかった。正式な団員ではない薫に対しても同じだ。
指定されたシチュエーションでの即興劇を、仁は黙って見守っていた。薫はあがる息を抑えながら、彼の裁定を待っている。
仁は首を横に振った。薫と一緒に演じていた男には、あれこれと注意点を述べていたが、薫には一言も触れず、次のペアに交代するように指示した。
レッスンのために、元々設置されている机と椅子は、ほぼ片付けられてしまっている。タオルで汗を拭きながら、薫はずるずると床に座り込んで、他の劇団員のエチュードを、ぼんやりと見つめていた。
仁が何も言わなかった理由は、自分がよくわかっている。
休憩になり、仁はわざわざ、薫の横に腰を下ろした。
「全然集中できてねぇけど、どうした?」
稽古外では、仁は兄のように優しい。芸術家の気難しさとは無縁の、社交的な男である。最も薫が相談しやすい相手だ。
どこから話そうか、と悩んでいる薫の頬に、仁は触れた。びっくりして数センチ飛びのくと、彼はげらげらと笑う。
「いや、その怪我が関係あんのかな、と思って」
びっくりさせないでくださいよ、と言いつつ、薫は仁に話し始めた。相談、というよりは雑談の体である。
「こないだ話したと思うんですけど、俺今、姉ちゃんの代わりに女装して男とデートしてるじゃないですか」
兄のような存在の仁には、遼佑の名前を出さずに、すでに女装デートのことは話してあったし、自分がバイであることもカミングアウト済みであった。
仁は誰かに言いふらしたり、根掘り葉掘り聞いてくるような人間ではないからだ。
「ああ……強烈な姉ちゃんな」
仁は静と面識はないが、薫がいつも話しているせいで、彼女の人となりを知っている。同情的な顔で、うんうん頷いている仁に、薫は続けた。
「日曜日に、男だってばらしたんですよ。でも、これからも会いたいって話したらいきなり殴られたんです」
無理矢理ひん剥いて、全裸写真を撮影したことは言わなかった。さすがの仁も、ドン引きするに決まっている。
「気になるんだったらずっと女装しててもいいよって言ったのにさ」
仁は黙って、薫の愚痴を聞いていた。薫が話し終わるのを待って、彼は真剣な顔でぽつりと言った。
「薫は、その男のことが好きなのか?」
改めて問われて、薫は首を捻った。好きか、と聞かれれば、「顔も身体もタイプだったから、わりと」としか、言いようがない。
別に無理矢理性的な関係に持ち込もうなどとは、思っていない。ただ、二人でこれからも遊びたいだけなのだ。
「殴られたのが悔しくて執着してるなら、やめとけ」
「そんなことは……」
仁はいつになく真剣に、薫を諭した。なんとなく苛立っているようにも見えた。
仁はいつも、恋をしろと言う。しかし薫が後腐れなく遊んでいるように、幾多の相手と浮名を流すのではなく、本気の恋でなくては駄目だ。
「お前は役者だ。役者は自分自身が商売道具。顔だけじゃなくて、心も全部だ」
真剣に相手を想うことは、たとえ涙を流し、傷つく結果となったとしても、糧となり、自分を輝かせるものになる。
そういう恋をしろ、と仁は言うのだ。
「好きだ、と胸を張って言えないのならば、諦めろ。お前も相手も、無駄に傷つくだけだ」
彼は立ち上がり、「休憩終了!」と宣言して、手を叩いた。
劇団員たちが皆集まっていく中で、薫はひとり、動かなかった。仁の言うことはもっともだ。けれど薫には、実際自分が遼佑をどう思っているのか、わからないのだ。
悩み続けた結果、その日の薫の演技は散々なものだった。だが、仁は何も言わずに、じっと見つめているだけだった。
>10話
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