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<6-5話
八月も半ばになって気温はますます高く、日差しは強い。もうすぐお盆だから、と母親はせわしない。それを後目に靖男はアルバイトへ向かう準備をしていた。
敏之からは遊びの誘いが何件か入っていたが、気乗りせずに断っていた。どこにも行かずにバイト先と家との往復を繰り返している。
「やっくん、出かけるの?」
妹の絵梨が寝ぼけ眼のまま一階に降りてきた。バイト、と簡単に応えると「最近バイトばっかりだよねえ」と肩を竦める。女兄弟というのは年下であっても男に対して大人ぶった態度を取りたがるのはなぜだろう。
妹でこれなのだから、姉が三人もいたらさぞかし千尋は、と考えたところで、首を横に振って追い出した。
千尋とはあれから一度も会っていなかった。いや、正確には会ってはいるのだが、話すことはなかった。彼の秘密を知る前に戻った。それどころか視線を交わすこともなかった。
「友達と遊びに行ったりしないの?」
「ん~……九月になったら考える」
いいなぁ、大学生は十月まで学校ないんでしょ。妹の声を聞きながら、
「じゃあ俺行くからな。留守番よろしく」
と、靴をとんとん、と鳴らした。
「九月になったらあの人連れてきてよ。ほら、お母さんにお弁当作ってもらってたじゃない」
お前は俺の息の根を止めるつもりか。当然妹が言っているのは、千尋のことだ。進級してから家にあまり居つかなくなった靖男のことを、母は多少は心配していた。とっくに成人済みの男なのだから放っておけばいいのに。
テスト期間中に夕飯を作ってもらったお礼に、と千尋に託されたのはブランド物のタオルハンカチだった。母に「五十嵐からお礼だって」と手渡すと、彼女はとても喜んでいた。実の息子は母の日にも何にもしてくれないのに、と言って。
それ以来千尋を連れてこい連れてこいと母はうるさいし、妹も「そんなにお母さんが気に入ってるんなら」と千尋に興味津々だ。
「まぁそのうちな」
仲直りできたら、と胸の中だけで靖男は付け足して、家を出た。まだ午前中だというのに日差しが皮膚を刺し、痛いくらいだった。
※※※
働いている間は、何も考えずに済んだ。夏休みは新古書店にとっては稼ぎ時だ。コミックスの全巻セットやDVDボックスなどがよく売れる。その一方で中高生が夏休みの開放的な気分で大胆になるのか、万引きも増えるため、目を光らせなければならなかった。
「神崎お前上の方届かないだろ、俺上代わるから下の方やって」
同じ大学生バイトの木村は背が高い。そういえばこいつのことが好きって振られたこともあったな、と忸怩たる思いを抱きながらも、木村の言う通りなので代わってもらった。
ぼんやりしていると社員に叱られるので、仕事は完璧にこなす。それでもふとした瞬間に、最後に見た泣き顔を思い出すのだ。本当に悲しそうな目をして、こちらを見ていた。
腕時計を見るとあと二分ほどで昼の休憩時間に入る。傍にいた同僚に「ごめん。腹痛いから一番行ってくる……たぶんそのまま二番入るわ」と言って、靖男はバックヤードへと戻った。
腹が痛い、というのは嘘だったが、とりあえずトイレへと向かった。個室に入って便座に座ると、溜息をつく。それかスマートフォンを取り出して、ぎょっとした。
「……五十嵐?」
千尋の名前で埋め尽くされた履歴に驚いて、トイレを出てすぐにかけ直した。千尋は二回コール音が鳴る前に、出た。
『か、神崎……』
助けて、とだけ千尋は言った。その後もごちゃごちゃと何か言っていたような気がするが、あまりにも要領を得ない説明であったために、「いい。すぐそっち行くから待ってろ」と言って、電話を切った。
バン、と事務所の扉を勢いよく開けると、休憩中の人間が何事かという目で見てきたが、そんなの構っている暇はなかった。その場にいた社員に「腹痛いの治らないんで、早退します。すんません」と口早に言い、エプロンを乱暴にロッカーへ突っ込んで着替えもそこそこに事務所を飛び出した。事情を突っ込まれなかったのは、靖男の剣幕さに気圧されたせいだろう。
電車に飛び乗って、駅へと急いだ。電車で一本でいけるところでよかった。「すぐ着くから、落ち着いて説明できるようにしとけ」とだけメールを打った。返事はこなかった。
自分をレイプした男にしか助けを求められない千尋のことが哀れだった。けれどそれよりも、佐川ではなくて自分に対して助けを求めてくれたことに対する喜びの方が大きかった。我ながら呆れてしまうが、そこまで自分は千尋と佐川の関係に嫉妬していたのだ。
電車はすぐに駅へと滑り込む。改札でICカードのタッチの仕方が悪かったのか、扉が閉まりそうになる。それを無理矢理押しのけて通って、靖男は千尋の住むアパートまで走った。階段を駆け上がりドアベルを鳴らすが、反応はない。
>7-2話
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