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<27話
「天野さん」
シャツの裾をぐっと引かれて、圭一郎は彼女の横顔を見下ろす。視線を合わせようとしない彼女のこめかみを、汗がゆっくりと流れ落ちていった。
ふと、圭一郎は、恋人のためにこんなに熱くなったことがあるだろうかと思った。
いつだって、「一緒にいると楽しいから付き合おうよ」、そんな軽い調子で恋愛は始まった。
終わるときに一度だって、「嫌だ、何が悪かったのか言ってくれ」と縋りつくことはなかった。
来る者は拒まず、去る者は追わず。
本当に私のこと好きなの?
尋ねられるのは毎回だった。その度に「好きだよ」と口先だけでごまかした。好きになるのは簡単で、冷めるのはもっと簡単。
唯一、圭一郎の胸を熱くするのは。
感情を、動かすのは。
「……もう気づいてると思いますけど、私、天野さんのこと……」
顔を上げた津村の目は、潤んでいた。視線が絡む。告白をされているというのに、圭一郎の気持ちは一切昂らず、凪いでいる。真っ直ぐに自分に恋をする彼女は可愛らしくて、これまでの圭一郎ならば、ぐらっとなびいてしまうところだった。
「……ごめん」
津村と二人で出かけても、ドキドキもしないしときめきもない。彼女だけではない。歴代の恋人とのデートですら、圭一郎はどこか冷めていた。相手のことを考えたデートプラン、なんて和嵩にはえらそうに言ったが、その実、自身は根本のところで、彼女たちのことを考えていなかった。
付き合ったところで、圭一郎の感情を揺さぶる相手は和嵩以外におらず、絶対に津村を傷つける。
「俺、いっぱい津村に世話になったのに、想いを返すことはできない。本当に、ごめん!」
仕事に関わる謝罪のときよりも、圭一郎は丁寧に言葉を選んだ。彼女の許しを得るまで、四十五度の最敬礼を崩さない。
頭上から鼻を啜る音が聞こえても、圭一郎は黙って頭を下げ続けた。
「も、いいです……顔、上げてください」
ゆっくりと顔を上げると、津村は笑っていた。目元を擦ったせいで落ちたメイクを、ハンカチで隠している。
「天野さんが、好きな人と、うまく、いきますように」
そう言って彼女は、圭一郎に背を向けた。
「……え?」
好きな、人?
圭一郎はしばらくの間、その場から動くことができなかった。
>29話
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