偽りの魔法は愛にとける(6)

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5話

 定時の午後五時。メロディーが鳴り始めるやいなや、海老沢は作業中のデータを保存して、いそいそと帰り支度を始める。

 チームが若手主体のため、経験の浅い人間にこの仕事は託せない、と抱え込み、残業することも多かった。

「海老沢さん、最近帰るの早いですよね」

「ん? ああ、まぁね。朝早く来てやる方が、気分よく仕事できるし」

 お喋りな部下に話しかけられて、気は急くが無視するわけにもいかない。海老沢は立ち上がり、荷物を持った状態で応じる。

 彼はじっと海老沢の両手にぶら下がった荷物を見て、首を傾げる。片方はビジネスバッグ。もう片方はスポーツバッグという、ちぐはぐな取り合わせだ。

「荷物も妙に多いし、なんかあったんですか?」

「えー、と。いや、そう! スポーツジムにね、通い始めたんだよ」

 事前に考えておいた言い訳を引っ張り出したが、そろそろ退出しないと、ボロが出そうだ。海老沢は背中に冷や汗が流れるのを感じる。

「ふーん。その割にはむしろ、ふっくらしたような……?」

「じゃあ、また明日!」

 海老沢は途中で話をぶった切り、タイムカードを押してどたばたとオフィスを後にした。

 向かう先は、勿論スポーツジムではない。電車に乗って、最寄り駅を過ぎて、二つ目で下車する。

 さりげなく鞄から瓶を取り出して、キャンディーを一粒、口に放り込む。それからホーム内の公衆トイレに人目を気にしつつ入ると、スポーツバッグに入れてある私服に着替えた。

 本当は家に帰って、シャワーを浴びてから着替えたいところだが、一分一秒でも無駄にしたくない。海老沢が彼を――ようやく本名を知ることのできた、河村優の隣に立つことができるのは、開店前だけなのだ。

 火曜日に再度、昼間に来店した海老沢の手伝いを、優は受け入れてくれた。土曜日と、もう一日くらい好きなときに来て、手伝ってくれればいい。正式雇用して給料を出せるほどは儲かっていないから、申し訳ない。そう頭を下げられたが、願ったりかなったりである。こちらは身分証明書を出せと言われても、出せないのだから。

 優は報酬代わりに、賄いを出すことを約束した。平日だと、どんなに急いでも六時にしか到着できない。食べていたら開店前準備など手伝えないので、断ろうとしたが、彼は弁当箱を用意して、海老沢に食事を寄越した。

『君はもっと、食べた方がいいよ』

 と言って。

 実際には、中年太りの恐怖に怯えるオッサンである。しかし、一人暮らしの身には、誰かの手料理はありがたいので、頂戴することにした。

 カラコロと飴を転がして、早く溶かしきろうと頑張る。弟みたいに噛み砕ければいいのだが、怖くてできない。ようやく飲み込んで、海老沢は手鏡で顔をチェックした。大丈夫。僕は二十歳。

 スマートフォンのアラームを、制限時間ギリギリにセットする。正体を現してしまうのは問題だが、できる限り長い時間、優と一緒にいたい。せめぎあいの結果が二時間五十分だった。

 ドアの外の空気を読み取り、誰もいないことを確認してから素早く個室を出る。そのまま改札を抜けると、コインロッカーに大荷物をしまった。

 早く店にたどり着きたいのはやまやまだが、飲食店に汗だくで入るのは気が引ける。適度な速度で早歩きして、店の前に着く。

 海老沢は、扉を開けることをもう恐れたりしない。今一度自分に、「僕は二十歳だ」と言い聞かせる。顔かたちは変わっても、中身は変わらない。オッサン臭い、ジェネレーションギャップを感じさせるようなことを言わないようにせねば。

「こんにちは、優さん」

 すでに開店準備をしていた優は、料理の手を止めて微笑んだ。

「やあ、エビくん。今日も仕事? お疲れ様」

 ああ、この声に労ってもらえるのなら、宇宙人レベルで話が通じないギャル社員の教育も、理不尽で気まぐれな上司の命令にも耐えられる……!

「はい。いえ、元気なんで僕。頑張りますね」

 海老沢は自分用に準備されたエプロンを取り、素早く身に着ける。優は黒のギャルソンエプロンを格好よく着用しているが、海老沢用のはごくシンプルな、家庭で使う男性向けのエプロンだ。三角巾でもすれば、調理実習である。

「ほら。また縦結びになってるよ」

「え? あれ? えーっと」

 後ろ手に紐を結ぼうとすると、どうも上手くいかない。毎回のことなので、優は「仕方ないなあ」と言いながら、海老沢の背後に回った。

「はい、できた」

「ありがとうございます。いつもいつも」

 一人暮らしは長いものの、海老沢はどうにも不器用だ。手伝いを始めて二週間が経過するが、その間に割ったグラスや皿の数は考えたくなかった。調理の補助も、ピーラーすらまともに使えずに、爪を引っかけて怪我をしてしまったほどである。まともにできるのは掃除くらいで、それも時折、滑ってすっ転ぶ。

 エプロンの蝶々結びさえ、毎回優にやり直してもらっている自分に嫌気がさす。海老沢は深く溜息をつき、

「いっそのこと、割烹着の方がいいのかも……」

 と呟く。後ろがボタンになっているタイプを選べば、紐を結ぶという行為からは解放される。エプロンよりもカバーする範囲が広いから、汚れない。まさしく一石二鳥なのでは? 

 海老沢がそう考えて振り向くと、優が肩を小刻みに震わせている。

「優さん?」

「か、割烹着って……!」

 着用図が相当ツボだったのか、優は堪えきれずに噴き出した。もしかして割烹着って、オッサンにしか思い浮かばないアイテムだったのかもしれない。

 失言に慌てる海老沢だが、ゲラゲラと声を上げて笑っている優を見ると、釣られて笑ってしまった。

 客の前で彼は、静かに微笑むことしかしない。こんな笑顔を見せてくれるのは、海老沢が客ではないからだ。

「やだなあ。笑いすぎですってば」

 口では文句を言いながらも、海老沢は嬉しかったのだ。

7話

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