<13話
「奥沢くんの担当の、娘の桃子さんの方だけどね。彼女は優等生だし、規則正しい生活を送っているから、尾行は楽だと思うよ」
少しでも危険だと思ったら、潜入をそこで諦めることをエリーと確認していた黒田に言われ、ヒカルは「う」と声を漏らした。急に腹が痛くなったときと、同じ呻き声だ。
「どうした、ヒカル」
「何か疑問でもあるかな、奥沢くん?」
二人に同時に問われ、ヒカルは一瞬だけ迷った。ポケットの中のハンカチを握る。手汗でさらに湿ってしまったかもしれない。
ヒカルはハンカチを二人に見せた。どう見ても、女性物の愛らしいそれに、黒田は目を丸くしたし、エリーは「そういうことか」と、すでに事態を理解したらしい。
彼らに隠し立てをすることは、捜査に支障が出るということだ。迷いはしたものの、結局ヒカルは、新人として、極めてまっとうな判断をした。
「その、俺、すでにターゲットと接触してしまって」
スキップで具合が悪くて、とか、彼女だと思わずに顔を上げてしまって、とか、言い訳はいくらでもできたが、ヒカルは口を噤んだ。
桃子は自分に親切にしてくれた。そんな彼女に責任転嫁することは、どうしてもできなかった。
「もしかしたら、彼女にすでに、顔を覚えられてるかもしれない、し」
「し?」
エリーの鋭い声は、感情が読めなかった。わかりやすく苛立っていてくれればいいのに、と思う。
こんなことを言っていいものか。ヒカルの口はまごつくだけで、明瞭な言葉を発しなかった。
「別に怒ってるわけじゃないんだ。お前の意見をまずは言え。それから俺や黒田さんが判断する」
黒田もエリーの言葉に同調するように、優しい目でヒカルを見守っている。
まるで、飴と鞭だ。北風と太陽ともいう。そしてこの場合、ヒカルの口を割らせるのは、ぬいぐるみに擬態して、本当の表情が見えないエリーよりも、笑って信頼を寄せてくれる黒田の方だから、寓話というのはまったくもって正しい。
「このハンカチ、借りたままなのは、なんか、こう……嫌だなって」
上手く言えなかった。彼女のことをこそこそと付け回すのが嫌な理由は、たぶん、それだけじゃない。でも、口にしたら自分が警察官ではなくなってしまうような感じがして、怖かった。
「まぁ、確かに……このハンカチ、ちょっとしたイイ物みたいだしね」
黒田がフォローしてくれる。彼はヒカルの手からハンカチを借り受けると、その縁に触れて、「ほら、ここに刺繍があるでしょ」と示した。
「ローマ字で、桃子。丁寧な手仕事だ。でも、プロの手によるものじゃない。誰かが、彼女のことを大切に思って、一針一針縫った品だよ。これは返してあげたほうがいい」
優しい布地と同色の糸で刺繍されていたため、ヒカルは気がついていなかった。誰かの手仕事によるもの。そしておそらく、これは。
「彼女の、亡くなったお母さんの手仕事かもしれないからね」
桃子の母親である京子は、彼女が小学生のときに病に倒れ、亡くなった。高校生になった今も、大切に持っているハンカチだ。
ヒカルには与えられなかった母の愛が、刺繍を通して伝わってくるような気がして、ヒカルは糸のでこぼこをゆっくりとなぞった。
「わかった」
沈黙していたエリーが、口を開いた。ウサギのぬいぐるみをヒカルはじっと見つめる。エリー自身ではないけれど、そうすることで、彼に自分の感情が、言わずとも伝わることを期待した。
「辰巳桃子に顔を覚えられている可能性はある。だとすれば、それを逆手に、近づくしかない」
尾行などよりも、はるかに難しい仕事だ。
それでもお前は、やると言うんだな。
念を押されて、ヒカルは頷いた。もう一度、彼女に会うことができる。傍で見守ることができる。
「エリー。サンキュ」
否応なしに高鳴る胸を押さえた。口元がうっかり緩んでしまわぬように、気をつけなければならなかった。
「忘れるなよ。俺たちの任務は、『正しい歴史』を守ることだ」
「わかってるよ」
今更そんなことを言われずとも、わかっている。でも、彼女の父が、どんな反社会的な行動をしたとしても、桃子自身には関係ない。
普通にハンカチを返し、礼だと言ってジュースを奢り、話をする。そうやって、桃子から情報収集をする。ヒカルがすることは、それだけだ。
「あなたもですよ、黒田さん」
意外なことに、エリーはヒカルだけではなく、黒田にも同じ指摘をした。ど新人の自分にはわかるが、黒田はもう、何十年も第一線で活動してきた捜査員だ。エリーに言われるまでもないだろう。
馬鹿にするなと怒るかと思った黒田だったが、彼は唇を引き締めた。
「……肝に銘じますよ」
彼がその後浮かべた笑みは、なんだかとても、疲れていた。
>15話
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