業火を刻めよ(14)

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火 ライト文芸

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13話

「奥沢くんの担当の、娘の桃子さんの方だけどね。彼女は優等生だし、規則正しい生活を送っているから、尾行は楽だと思うよ」

 少しでも危険だと思ったら、潜入をそこで諦めることをエリーと確認していた黒田に言われ、ヒカルは「う」と声を漏らした。急に腹が痛くなったときと、同じ呻き声だ。

「どうした、ヒカル」

「何か疑問でもあるかな、奥沢くん?」

 二人に同時に問われ、ヒカルは一瞬だけ迷った。ポケットの中のハンカチを握る。手汗でさらに湿ってしまったかもしれない。

 ヒカルはハンカチを二人に見せた。どう見ても、女性物の愛らしいそれに、黒田は目を丸くしたし、エリーは「そういうことか」と、すでに事態を理解したらしい。

 彼らに隠し立てをすることは、捜査に支障が出るということだ。迷いはしたものの、結局ヒカルは、新人として、極めてまっとうな判断をした。

「その、俺、すでにターゲットと接触してしまって」

 スキップで具合が悪くて、とか、彼女だと思わずに顔を上げてしまって、とか、言い訳はいくらでもできたが、ヒカルは口を噤んだ。

 桃子は自分に親切にしてくれた。そんな彼女に責任転嫁することは、どうしてもできなかった。

「もしかしたら、彼女にすでに、顔を覚えられてるかもしれない、し」

「し?」

 エリーの鋭い声は、感情が読めなかった。わかりやすく苛立っていてくれればいいのに、と思う。

 こんなことを言っていいものか。ヒカルの口はまごつくだけで、明瞭な言葉を発しなかった。

「別に怒ってるわけじゃないんだ。お前の意見をまずは言え。それから俺や黒田さんが判断する」

 黒田もエリーの言葉に同調するように、優しい目でヒカルを見守っている。

 まるで、飴と鞭だ。北風と太陽ともいう。そしてこの場合、ヒカルの口を割らせるのは、ぬいぐるみに擬態して、本当の表情が見えないエリーよりも、笑って信頼を寄せてくれる黒田の方だから、寓話というのはまったくもって正しい。

「このハンカチ、借りたままなのは、なんか、こう……嫌だなって」

 上手く言えなかった。彼女のことをこそこそと付け回すのが嫌な理由は、たぶん、それだけじゃない。でも、口にしたら自分が警察官ではなくなってしまうような感じがして、怖かった。

「まぁ、確かに……このハンカチ、ちょっとしたイイ物みたいだしね」

 黒田がフォローしてくれる。彼はヒカルの手からハンカチを借り受けると、その縁に触れて、「ほら、ここに刺繍があるでしょ」と示した。

「ローマ字で、桃子。丁寧な手仕事だ。でも、プロの手によるものじゃない。誰かが、彼女のことを大切に思って、一針一針縫った品だよ。これは返してあげたほうがいい」

 優しい布地と同色の糸で刺繍されていたため、ヒカルは気がついていなかった。誰かの手仕事によるもの。そしておそらく、これは。

「彼女の、亡くなったお母さんの手仕事かもしれないからね」

 桃子の母親である京子は、彼女が小学生のときに病に倒れ、亡くなった。高校生になった今も、大切に持っているハンカチだ。

 ヒカルには与えられなかった母の愛が、刺繍を通して伝わってくるような気がして、ヒカルは糸のでこぼこをゆっくりとなぞった。

「わかった」

 沈黙していたエリーが、口を開いた。ウサギのぬいぐるみをヒカルはじっと見つめる。エリー自身ではないけれど、そうすることで、彼に自分の感情が、言わずとも伝わることを期待した。

「辰巳桃子に顔を覚えられている可能性はある。だとすれば、それを逆手に、近づくしかない」

 尾行などよりも、はるかに難しい仕事だ。

 それでもお前は、やると言うんだな。

 念を押されて、ヒカルは頷いた。もう一度、彼女に会うことができる。傍で見守ることができる。

「エリー。サンキュ」

 否応なしに高鳴る胸を押さえた。口元がうっかり緩んでしまわぬように、気をつけなければならなかった。

「忘れるなよ。俺たちの任務は、『正しい歴史』を守ることだ」

「わかってるよ」

 今更そんなことを言われずとも、わかっている。でも、彼女の父が、どんな反社会的な行動をしたとしても、桃子自身には関係ない。

 普通にハンカチを返し、礼だと言ってジュースを奢り、話をする。そうやって、桃子から情報収集をする。ヒカルがすることは、それだけだ。

「あなたもですよ、黒田さん」

 意外なことに、エリーはヒカルだけではなく、黒田にも同じ指摘をした。ど新人の自分にはわかるが、黒田はもう、何十年も第一線で活動してきた捜査員だ。エリーに言われるまでもないだろう。

 馬鹿にするなと怒るかと思った黒田だったが、彼は唇を引き締めた。

「……肝に銘じますよ」

 彼がその後浮かべた笑みは、なんだかとても、疲れていた。

15話

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