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<【13】
次の日、僕はいつもよりも早い時間に家を出た。相変わらず、「行ってきます」に応じる声はなかった。ご飯は用意してあるけれど、家族らしい会話はない。朝は特に、父親は出勤準備に忙しい。
それでも僕は、挨拶は欠かさないようにしている。僕からの発信を諦めたら、本当に、家族としての形が崩れてしまうような気がして。
到着したときには、教室の中には誰もいなかった。今日も朝から雨が降っていたから、外でやる部活の連中の朝練もない、静かなものだ。
篤久が入院をしてから、机が一個減った教室。席替えをしたため、僕の席は一番窓側の一番後ろになってしまった。授業のときは、前の席の男子の背が高くて見えづらいが、休み時間に人間観察をするには、ちょうどいい席だ。
次第に登校してくるクラスメイトたちが、気配に気づかないくらい、僕は自分の席で息を潜めていた。
そして待ち人は、予鈴が鳴る三分前に教室にやってきた。髪型が湿気でうまく決まらなかったのか、珍しく下ろしたままの姿で。
それはたまたま、昨日見た少女と、そっくりそのまま同じ。指で毛先をくるくると回して、溜息をつく。
「おはよう」
もちろん朝の挨拶は、僕に向けられたものじゃない。周りにいる同級生、それから仲良しグループのメンバーに。
「おはよう、美希ちゃん」
和やかな遠藤の返事を皮切りに、すでに登校済みで、彼女を待ち構えていた青山と渡瀬のコンビも、素早い動きで集まっていた。
「おはよう、美希。今日も可愛いじゃん」
渡瀬の軽口に、美希は喜ぶよりも、唇を尖らせた。自分を可愛いと思っていないとできない仕草である。
「えー? 今日、髪の毛絶対変だよぉ」
「そんなことはない。確かに今日は湿度も高いし、髪もうねりがちだが、平安時代の和歌にも、寝くたれ髪、つまり寝癖のついた乱れた髪の妻をなんと愛しいことかと思う歌があって……」
学年一位の秀才は、女子をフォローするのにも、くどくどと自分の知識をひけらかさなければならないらしい。
そもそもお前は、美希の彼氏でもなんでもないのだから、その例えはおかしいだろう。
褒められているはずの美希も、彼がどこまで本気なのかわからずに、反応に困っている。遠藤も、「うわぁ」という顔で呆れている。彼女がここまで自分の感情をあらわにすることは、珍しい。
妙な空気になったことを、当の本人だけが気づかない。このまま放っておくと、「古今東西、美人の条件」が始まってしまいそうだったのを、渡瀬が打ち切った。
青山の首に腕を回し、ぐっと引き寄せる。友情からくるものではなく、黙らせるための強行策。
サッカー部で鍛えている彼は、足だけの男じゃなかった。腕も太くて力強く、青山は「ぐぇ」と、変な声をあげた以降、沈黙した。
「まあ、美希ならパジャマでも寝ぼけてても可愛いに決まってるって!」
確かに、病院で会った美希も可愛かった。寝起きだったのか、大きな目は半分くらいのサイズになっていた。僕が声をかけると、不思議そうに目を見開いていたが、こうして学校で見る姿よりも、幼く感じた。
昨日の彼女の残像を、今の彼女に重ねてみて初めて、僕は女子のいわゆる「すっぴん」として差し出される顔が、「すっぴん風メイク」であることを知った。
何もしないで、唇は血色のよすぎるピンク色にはならないし、睫毛はくるんと上向かない。日によってコンディションは違うのだから、クマと一生無縁で生きるということも、ありえないのだ。
これ以上は女性不信になりそうなことを考えながらも、僕は美希を凝視してしまう。彼女自身は美少女ゆえ、見られることに慣れているのだろう。一切、僕の視線には気がつかない。だが、周りは違う。
最初に僕に気づいたのは、遠藤だった。三人の話を聞いて、苦笑にも似た様子で微笑んでいた彼女が、ふと口の形を変えて、こちらを見返してくる。
まずい、と思うよりも先に、遠藤の目の動きを辿って、三人が僕に気がついた。慌てて顔ごと反らしても、もう遅い。
そもそも彼らとは、篤久の件で因縁がある。被害者であり、加害者でもある本人は入院中で不在だ。
彼の親友として、地味で目立たないながらも周知されていた僕は、本当なら、なるべく彼らから距離を取らなければならなかった。
ぎゅっと不愉快そうに眉根を寄せた美希。彼女の表情をくみ取って、騎士たちふたりは、僕の方へとどんどん近づいてきた。
肩からぶつかってくる様子が、ナイトから堕ちてただのチンピラみたいになっているなあ、と、ぼんやり思う。現実逃避だ。
「あんだよ。俺らに用あんのか? あぁ?」
渡瀬の恫喝に、僕は肩を縮めた。サッカー部の爽やかイケメンストライカーっていう肩書きは、一刻も早く返上すべきだ。
彼に比べれば青山は幾分か冷静だが、眼鏡の位置を何度も神経質に直すのは、カチャカチャと音がして、こちらの神経を逆なでする。
「いや、君たちには、ないです」
僕の受け答えもまずかった。「気のせいだ」と主張するべきだった。「君たちには」なんて、美希に興味があることを露呈してしまっている。
でも、どうしても知りたかった。
昨日、病院で会った彼女は、本当に濱屋美希だったのかということを。
「君たちには……ってことは、あたしかサーヤのこと見てたの? キモっ」
自分の身体を抱きしめて震える美希は、手厳しいことを言った。見ていたのは事実だが、やましい気持ちがあったわけではない。弁解しようとする僕を、ここぞとばかりにふたりの男は責め立ててくる。
黙って我慢しておけばいい。じっと嵐が過ぎ去るのを待っていたが、「あの男の親友なだけある。変態だな」という青山の嘲笑に、僕は冷静ではいられなかった。
確かに、篤久は馬鹿だった。自分の力じゃないのに、美希と付き合えることに浮かれ、さらに高望みしてハーレムをつくろうとして、失敗した。
それでも、彼が最初に美希に抱いた気持ちは、純粋な恋心だと思うのだ。
隣の席になっても、自分から話しかけることはできず、女々しくもおまじないに縋ろうとした。しかも、ひとりで店に行くことができずに、僕まで連れて。
篤久のピュアな気持ちを、「変態」の一言で切って捨てるのは、さすがに許せなかった。
とはいえ、ここで篤久のことについて切れてしまえば、その後の学校生活に支障が出る。
僕はいつだって、冷静に自分の立場を分析する。悪目立ちせず、今までどおりの無害でいてもいなくてもいい人間でいたい。
陰気でおとなしいという性質をプラスに言い換えれば、優しいという表現になりがちだ。
だが、僕は真逆の存在であると自覚している。
真に優しい人間ならば、篤久のために、渡瀬に反論している。
いいや、もっと言えば、ハーレム云々言い出したときに殴っているし、美希を変な力に頼らず口説くように説得し、彼の恋に協力している。
僕は薄情で、愚かで、自分の保身しか考えていない、卑怯者。今だって、「自分が」変態ではないということを主張しようとしている。
「僕は別に、濱屋さんにやましい気持ちがあるわけじゃないんだ。ただ、昨日は入院していたみたいだから。今日は元気そうでよかったな、って」
早口は、彼らには言い訳に聞こえたらしい。青山と渡瀬は顔を見合わせて、それからゲラゲラと笑った。
「にゅ、入院って!」
「そんな大事件あったら、担任が何も言わないわけがないだろう。現に美希は、こうやって登校しているわけだし」
一流のジョークを聞いたような反応だが、僕を馬鹿にしているから、スッとしない。
こいつらはもうダメだ。無視しよう。
視線を女子ふたりに移す。遠藤は、美希のことをちらちらと心配そうに見つめていた。
心優しい子だ。よくも悪くも目立つ連中に比べて地味で、なぜこのグループにいるんだろうとばかり思っていたが、彼女の思いやりがなければ、とっくに空中分解しているのかもしれない。
そして当の本人はといえば。
「……何それ。私、昨日病院なんて行ってないけど?」
鼻で笑った。なまじ美少女だから、深く傷つく。
僕は食い下がらなかった。
「そう。じゃあ、他人の空似ってやつか」
それだけ言って、僕は廊下へ出る。一度頭を整理するには、彼らのいない場所に行く必要がある。
もうすぐチャイムが鳴るけれど、かまわない。僕がすでに登校していることは、クラスの全員が知っているから、万が一担任が来てしまっても、何か言ってくれる。
トイレに向かう。廊下の角を曲がったところで、「ちょっと」と、後ろから声をかけられた。小さな声だったので、僕に向けてとは最初、気づかなかったくらいだ。
「ねぇ!」
誰もいないことを確認してから、僕は振り返った。腕を組み、仁王立ちで僕を睨みつけるのは、美希だった。
「……なに?」
教室のやりとりで、すでに終わった話だ。少なくとも、彼女の正体が美希ではないと強硬に主張されたことで、僕の中ではもう、美希と話すことは何もない。
だが、彼女の側はそうではないらしい。
唇を噛み噛み、奥歯に何か挟まったようないらだちを隠さず、「本当なら言いたくない!」というのがありありと浮かんでいる。
「なにもないなら、僕はトイレ行くんだけど」
トイレは究極のプライベート空間。性別によって分けられ、さらに個室まである。まさか男子トイレの前までついてくるわけにもいかないだろう。美希にはイメージというものがある。
彼女は一瞬うつむいたかと思うと、顔を上げた。目にはぐっと力がこもっていて、ビームが出そうだった。
「あの子のことは、学校で口にしないで!」
「あの子……?」
ピンと来ずに、首をひねった僕に、美希はずんずんと近づいてきて、五センチの距離になったところで、僕の襟首をぐっと掴んだ。彼女の方が背がわずかに高いので、様になっているなあ、と、場違いなことを考える。
「病院で会った奴のこと! わかった!?」
あまりの剣幕に、頷く以外の反応を封じられた。僕の答えに美希は満足したようで、ホ、と息を吐き出した。
それからすぐにチャイムが鳴り、我に返った彼女は、僕をもう一度だけ睨みつけ、それからパタパタと教室に戻っていった。
「なんだ……?」
病院など行っていないといったその口で、「病院にいたあの子」のことを語る。彼女自身、矛盾に気づいているのだろうか。
呆然と後ろ姿を見送る僕を、三階までえっちらおっちら昇ってきた担任が、見咎める。
「おい、切原。お前なにしてるんだ?」
言われて、ようやく僕は目的地を思い出した。
「トイレです」
「じゃあ速く行ってこい」
しっしっ、と動物を追い払うような仕草の担任。
教師というのは、動物園の飼育員と近しいのかもしれない。
檻の中の従順な動物たち。でも中には、手のつけられない野生の動物がいる。それが教室の正体のような気がした。
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