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<6話
「葛葉」
最前列端に座り、前の週のレジュメで復習をしていた幹也は、雪彦の呼びかけに顔を上げた。友人たちの言うところの「馬鹿っぽい」笑顔を浮かべて、「雪彦さん」と応じる。無邪気な様子に気圧される。
幹也は特待生という立場に胡坐をかくことなく、たゆまぬ努力をしている。その彼に、俺は何を頼もうとしているのか。
「あのさー、葛葉。俺らちょーっと用事を思い出したから、この講義の代返頼めない?」
小さく舌打ちした友人が、首に腕を回してくる。きゅっと絞められた。反射的に攻撃しそうになって、思いとどまる。
暴力ではない。貸し一つ。その程度の意味合いに過ぎない。
「え?」
哲学の講義を担当する講師は、機械が苦手だ。そのため、学生証を読み取って出席を管理するシステムを利用していない。
そのため、代返のしやすさから、この講義は人気があった。履修者全員が出席していたら、本当はこの教室には入りきらない。大学側もある程度、黙認している状態だ。
だから、罪悪感なくサボる。テストは誰かのノートをコピーして乗り切ればいい。雪彦自身、そういう考えがないとは言わない。
「ここで代返バレたらさすがに気まずいだろうから、俺らの座ってたあっこの席に移動しなよ。一番後ろだから、まず気づかれないよ」
話はどんどん進んでいく。先生はまだか。来てしまえば、諦めて席に戻るだけなのに。
無言で突っ立ったままの雪彦の顔を、幹也はじっと見つめた。話をしているのは他の人間であるにもかかわらず、本心を見透かす瞳が、雪彦を苛む。それが本当に、ご主人様の求めていること? と。
だってしょうがない。俺にはこいつらしか、友達がいない。猛勉強して入学した大学だ。孤独なキャンパスライフを送るのは耐えられない。
「ほら、早く」
苛立ってきた男の声に目を瞑った。そのとき、はっきりと聞こえた。
「お断りします」
冷静で、何の感情も載っていないくせに強い言葉だったので、幹也が何を言っているのか一瞬わからなかった。雪彦だけではなく、全員が同じだったようで、「は?」と間抜けに口を開ける。穏やかな顔のまま、幹也は重ねて、「だから、お断りします」と言った。
「は、ぁ? だってお前、コイツの下僕なんだろ?」
目の前にいる自分を、「コイツ」と呼ばわりか。
どうして俺は、彼らと仲良くしているのだろう。一方的に搾取され、この間の幹也とのデアのときだって、誰もフォローのひとつもしてくれなかった。
「俺は確かに、下僕ではありますけれど、主人の不利益になることはしません。友人の学ぶ機会を奪う人たちとは、違うので」
明確な非難のセリフに、一触即発、教室中がどうなることかとハラハラ見守っている。誰一人として、仲裁に入らないのは、巻き込まれたくないせいだ。
片や不真面目な連中だが、権力者の息子たち。目をつけられたら、将来就職するときに、不利益を被るかもしれない。
片や、先日廊下で「ご主人様になってください」という狂気のセリフを叫び、今も雪彦のことを「主人」と呼んだ秀才にして変態。悪い噂はないけれど、積極的に友人になりたいかというと、悩ましい。
どちらに与するのも、嫌だろう。当事者の一人にして、火種となってしまった雪彦は、彼らの気持ちが痛いほどわかった。
双方一歩も引かないまま、そろそろ講師がやってくる時間になる。雪彦は溜息をついて、幹也の方に歩み寄った。角を立てずに丸くおさめるため、それから自分自身を本当に気遣ってくれるのはどちらか。考えたうえで、こうするのが一番だと判断した。
「俺が講義に出ればいいんだろ」
「雪彦さん」
友人たちに向き直り、下手くそな笑顔を浮かべた。
「代返は、俺がやっておくから」
彼らは幹也に向けていた敵意をあっさりと翻して、「じゃ、頼むわ」と、教室を出ていった。
結局のところ、友人たちは自分と遊びたいわけではない。そしてまた、雪彦自身、彼らと一緒にいることに、メリットなど一つもないことに気づいてしまった。
講師が入ってきたのはその直後だった。教室を去った連中とすれ違っただろうに、彼の顔には怒りも諦めも浮かんでいない。淡々と教壇に立ち、すぐに準備を始める。
最後列に今から座り直すのもおかしくて、幹也と最前列に着席した。さすがに講師の視線が注がれている席で、出席票を何枚も取るのは難しく、雪彦は「これで奴らとの縁も切れるんだろうな」と、漠然と思った。
寂しいとか悲しいという感情は、湧かなかった。
「ありがとな」
雪彦は、ぼそりと礼を言った。たぶん自分は、ギリギリのところで幹也に救われたのかもしれない。
雪彦の視線に、幹也は小さく微笑んだ。
慈愛に満ちた顔は、馬鹿っぽさのかけらもなく、雪彦はなぜかドギマギしてしまい、ふいとそっぽを向いた。
>8話
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