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<28話
「もう!」
舞台俳優というのは日常動作も大げさになりがちなのか、彼女は手本のような地団駄を踏んだ。家主への怒りが沸点に達している。
そこで初めて、呆然とたたずむ涼の存在に気づき、取り澄まして首を傾げた。
「この家に用事?」
「あ、いや、まあ」
終演後にロビーで香貴と立ち話をしていただけの涼の存在など、彼女は一切記憶していない。直接対話していないのだから当たり前だが、自分が瞬間的に、一方的にもやもやした感情を抱いたことに、涼は驚き、たじろいだ。
役者は人見知りだとやっていけないのだろう。香貴と同じくらいの好奇心を見せ、涼に近づいてくる。とっさに動けず、反射的に花を背中に隠そうとしたが、そうは問屋が卸さなかった。
「あ、もしかして花屋さん? 香貴が言ってた」
そう言われた瞬間、すっと冷めていった。香貴は彼女に、涼の存在を明かしていた。それに、自宅を訪れることを許している関係性。
ただの役者仲間、しかも女性を、気軽に家に呼ぶ男じゃない。
つまりは、そういうことなのだ。
呆然とした涼の手から、彼女はバラの花を奪い取る。強奪したという意識はないだろう。花を受け取るのは慣れているし、何よりも香貴とは親しい間柄なのだから、自分のものだとでも思っている。
「バラ? いいわね。私、バラが大好きなの!」
ああ、やっぱり。もう片方の手からも力が抜け、エコバッグが落ちた。見咎めた彼女が「大丈夫?」と拾ってくれたのをいいことに、涼は営業スマイルを浮かべた。
「よかったらそれ、あいつに渡してください」
ぎこちない表情であったことは、鏡などなくても自覚している。戸惑いを見せた彼女に、涼は一礼してその場を去った。怪しまれないように、あの角を曲がるまでは歩いて。
女性の死角に入った瞬間、涼は走り出した。駐車中の車に乗り込んで、ハンドルにもたれかかる。
香貴がバラの花が好きなのは、祖父母の影響だと思っていた。彼らが元気だった頃には、あの庭はバラの花でいっぱいだったのだろう、と。
けれど違ったのだ。バラに向ける香貴の目は、自分を育ててくれた家族への愛というには甘すぎると常々思っていた。予感は常によぎっていたが、直視するのは辛かった。
そう、辛いのだ。香貴が恋愛感情を差し向ける相手がわかってしまって、今自分は、胸が締めつけられるほどの寂寥感を覚えている。
ハンドルを握る手は、前よりも少し、傷が減っていた。この手なら、彼と絡ませ、きっちりと繋いでも、前よりはマシだと思っていたのに。
「ああ、そうか」
思わず声に出していた。
俺はもう一度、あんな風に香貴と手を繋ぎたかったんだ。願わくは、笑顔も手の感触も、自分だけのものにしたい。そう思っていたのだ。
ただの弟分に向けるには、過剰な感情。気づいた瞬間にそれは、恋と名づけられ、そして散っていく。
くそ、と振り上げた拳は、どこにも打ちつけられなかった。もう香貴に擦ってもらえないんだから、傷ついたって構わないのに。
涼は八つ当たりすらできなかった。
>30話
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