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<15話
最終的には、母の「あんた、私を置いて帰るの?」という圧力に負けた。
舞台全体を見渡せるし、オペラグラスなしでも役者の顔がよく見えるど真ん中の座席に座らされた。
思い返せば、学生時代の芸術鑑賞会くらいでしか観劇などしたことがない。劇場の椅子は座り心地がよく、開幕前からうとうとしていると、隣に座る母に肘鉄を食らわされた。
陰気くさい歴史物ではなく、現代日本を舞台にした物語だったのは、不幸中の幸いだった。眠気と戦う頭で、聞き慣れないカタカナの長い名前を聞き取り、ストーリーに没入するのは不可能だ。
どうにも振り払えない睡眠への欲求に、諦めて素直に従い、流されようとしたそのとき、幕が開いた。
ス、と息を吸う音に続く第一声に、涼の意識は引き上げられる。
『もしも。もしも運命の恋というものがあるのなら、神様。どうか、もう一度彼女と恋をさせてください』
園芸番組の司会を行う香貴とも、母と三人で食卓を囲む香貴とも違う。舞台役者の錦織香貴が、劇場を支配する。
前情報など一切なかったが、セリフからすぐに、香貴の演じる主人公とヒロインの恋愛物だということがわかる。
相思相愛の二人だったが、彼女が事故に遭い、記憶を失ってしまう。当然、恋人であった主人公のこともわからない。どころか、横恋慕を企む彼女の幼なじみが、毎日毎日病室にやってくる彼のことを、ストーカーだと吹き込んだために、避けられるようになる。
それでも彼女を諦められない主人公が、あの手この手を尽くして、再び彼女の手を取ることができるように努力する、という物語である。
若い役者が主体の舞台だ。その中でも、香貴には圧倒的に華がある。身長は他の役者と比べて飛び抜けて高いわけでもないし、声が馬鹿でかいわけでもない。
なのに、彼が喋るとハッとする。その言葉をじっくりと聞いてみたいと思うし、何なら愛を告げるセリフは、ヒロインではなくて観客に言っているようにすら聞こえる。
ラストでもヒロインは、記憶を取り戻すことはなかった。しかし、もう一度主人公に恋をした彼女とのやり取りで、大団円を迎えた。
『前の私が、どんな風にあなたと愛しあっていたかわからないけれど、これだけはわかるよ』
『それは……なに?』
『今の私の方が、何十倍も、あなたのことが好きだってこと!』
ヒロインを演じる役者(美人だが、顔立ちが少しキツい。同族嫌悪的に、あまり涼の好みではなかった)を見つめる香貴の目は、先程赤いバラ一色のフラワースタンドに注がれていたのと同じ、甘い愛情に満ちていて、ドキリとした。
>17話
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